表紙へ戻る

東海道五十三次道中記

(5)戸塚宿    故吉田茂首相も踏切待ちで国会を遅刻したそうだ。   街道地図
 日本橋を七つ発ち(午前4時)した旅人が東海道をスタコラ歩き、最初に泊った宿場が戸塚宿であったそうだ。戸塚宿内の「吉田一里塚」が日本橋から10番目、約40kmになるので江戸時代の旅人はずいぶん健脚だったことになる。私はやっと戸塚宿にたどりつくことが出来そう。
 平成17年11月11日
  環状2号上の歩道橋を渡り、てくてく歩いて国道1号の不動坂交差点までかれこれ40〜50分。

 ふっと振り向くと、高台の民家に見上げるような大木が。

 「益田家のモチノキ」(左)と表示がある。なんと樹齢300年。雄株と雌株があり樹高それぞれ19mと18mだとか。モチノ木でこれだけの大木は初めてだ。  

 不動坂の分岐は左のさらに左にある細い道が旧東海道。旧道は車も少なくのんびり歩ける。しばらく歩くと立派な屋敷が。しかし説明書き等なにも無い。歴史的建物 ではなさそうだ。


 国道1号に合流して4〜5分。ファミレス前に「江戸方見附跡碑」(左)がある。 写真を撮っていると中で食事をしている人が怪訝な顔つきでこちらを見ている。石碑の写真を撮っているんですよ、安心して。

 この先から左側を歩き「一里塚跡」を探したが見落としたようで柏尾川まで来てしまった。

 伯尾川に架かる「吉田大橋」(右)には安藤広重の東海道五十三次パネルがはめ込まれ擬宝珠が飾られるなど、ノスタルジアを刺激しそうな作りになっている。  


追記:吉田一里塚跡を見落としてしまったので後日探したら有りました。吉田大橋の手前100mほどの左側に小さな立て札が。


 吉田大橋を渡り、広いが車が少ない道を進むと東海道線の「戸塚踏切」(左)に行き当たる。
ここは、かつては渋滞の名所で、故吉田茂首相も大磯の自宅から国会に行く際、この踏切で待たされ国会を遅刻してしまったという「いわくつきの踏切」であった。
コメント:平成27年3月、アンダーパスが開通し踏切りは無くなりました。歩行者は大踏切デッキを通行します。 

 吉田茂首相の「鶴の一声」かどうか分からないが、その後、先ほど通ってきた不動坂交差点から右に行き東海道線を跨ぐ新しい道路が造られた。当時は「ワンマン道路」と呼ばれていたようである。


 踏切の先100m程の右路地奥、清源院境内に「心中句碑」(左)がひっそり立っている。
      「井にうかぶ 番ひの果てや 秋の蝶」
 遊女ヤマと若い町人清三郎が許されぬ恋に落ち天神塚の井戸にそろって身を投げたという。曾根崎心中さながらの事件であった。

 ちなみに清源院は徳川家康の側室「於万の方」が家康の菩提を弔うために創建した寺院であるが、墓地の階段をどこまでも上っていくと「於万の方火葬跡」(右)に行き着く。かたわらには於万の墓石も。



 街道に戻り右側を歩いていると「澤邊本陣跡」(左)の標柱が見上げる高さに立っている。その奥には明治天皇戸塚行在所跡碑がこれまた見上げる高さの場所に。

 そのまま右側を進むと八坂神社。さらにその先200mほどのところに源頼義・義家父子が造営したという富塚八幡宮がある。

境内の一角に「芭蕉句碑」(右)が有りました。   鎌倉を 生きて出でけむ 初松魚(はつがつお)  芭蕉翁


 富塚八幡宮を出たら左側を歩くと「戸塚宿上方見附跡」(左)が目に入る。標柱が建てられ説明板もある。松が植えられ手入れも行き届いている。が、松がなんとなく弱々しい。枯れなければよいが。

 この辺りから上り坂に。保土ヶ谷の「権太坂」とともに旅人を苦しめた大坂で、かなり長い距離があり坂の途中に7基もの「庚申塔」(右)が並んでいる。

 さらに坂を登って行くと大坂碑があるが歩道側からだと植え込みに囲まれてほとんど見えない。植木屋さん、もう少し気を使って。  


 長い坂を上り切ると再び国道1号に合流するのだが合流してからは車の排気ガスと騒音にまいった。

 しばらく歩くと「お軽勘平 戸塚山中道行の場碑」(左)がある。今だったら目の前まで迫るマンションのため「山中道行き」とはいくまい。

 その先で日本橋から11番目の「原宿一里塚跡」(右)を探していると、歩道の左側、やや高いところに松の木が1本。なんとなく予感がして近づくとやはり一里塚跡であった。説明板が添えられている。


 戸塚宿を抜けるとしばらくはトラックに付き合って国道1号を歩くことになる。健康のためのウオーキングと思えば苦にならないか。

前の宿場保土ヶ谷宿へ    次の宿場藤沢宿へ    表紙へ戻る