表紙へ戻る


東海道五十三次道中記

(8)大磯宿    島崎藤村のお墓はなんと質素な。         街道地図 

 平塚宿からわずか1里という近さの「大磯宿」。このため一つ先の「間の宿 梅沢」のほうが賑っていたそうだ。明治以降は日本一の保養地として有名になり、故吉田茂など政・財界人が多くの別荘を作り、高級避暑地として発展した「大磯宿」であった。

平成17年11月24日

 花水橋手前から饅頭のような「高麗山」(左)が見えてくる。  この山名は、奈良時代に新羅に追われた高句麗一族が移り住んだことに由来している。山の麓に御船祭りで有名な高来(たかく)神社がある。

 高来神社の先で国道は大きく左に曲がっていくが、旧東海道は真っ直ぐに進んでいく。

 旧街道に入ってすぐの右側に水車が回っているではないか。懐かしい風景だなーと近づいてみると「蕎麦屋さん」(右)だった。あまり手入れされていないところがいいんだなー。

 「旧東海道」(左)に目を移すと、 欅・桜・松 の混ざった並木がずっと続いている。国道1号から一歩入っただけなのに、別世界に踏み込んだような静けさと落ち着き。この雰囲気がなんともたまらない。
  

 雰囲気を楽しみながら100mほど歩くと、民家の庭先に「化粧井戸」(右)なる井戸がある。蘇我十郎との悲哀物語で知られる「虎御前」が、朝な夕なにこの井戸の水を汲み化粧していたのだとか。

 さらに100mほど歩くと右側に江戸から16番目の化粧坂一里塚が有ったことを示す立て札がある。街道の先は東海道線に遮られてしまうが、地下道を通って線路の向こう側へ。しばらく歩くと江戸見附跡の立て札があり、ここから宿場内。

 再び国道に合流。大磯駅入り口の交差点を渡って「延台寺」(左)に。 ここには虎御前の成長とともに大きくなったという不思議な虎御石が有るそうだ。この石、蘇我十郎祐成が工藤祐経に返り討ちに遭った折、身代わりになって刀を受けたのそうだ。

 国道を右側に移り大磯宿小島本陣跡碑を見た後地福寺へ。「島崎藤村の墓」(右)がある。

 細長い御影石の石柱が台座に立っているだけという極めて質素な墓。隣に一回り小ぶりの奥様の墓がある。

 地福寺から街道に戻ると尾上本陣跡碑がある。柱の正面側に「大磯小学校発祥の地」と刻まれているため、うっかり見落としそう。
この先国道が大きく右にカーブするが、手前の信号で左側に渡り、さらに三叉路の左側の道で海へ向かう事に。

 海岸に向かって歩き、高速道路に突き当たったらその下の歩道橋を渡ると、大きな石塔の隣に「海水浴場発祥の地碑」(左)が建てられている。明治18年、日本最初の海水浴場が開かれた場所だそうだ。
 

 街道に戻ると、同志社大学設立に尽力した「新島襄先生終焉の地碑」(右)が街道脇の植え込みの中に建てられている。傍らの説明板に 「・・・ 近代日本の黎明期、新島襄は憂国の至情抑えがたく、欧米先進国の新知識を求めて函館から脱国して米国に渡り・・・・」

 終焉の地碑の少し先に「湘南発祥の地碑」(左)がある。「湘南」というと若者というイメージだが、340年も前の寛文4年、崇雪という人がここに草庵を結んだ折に建てた標石に「著儘湘南絶地」と刻んだのが始まりだそうだ。

 碑の横から階段を下りると日本3大俳諧道場の一つと言われる「鴫立庵」(右)である。
「こころなき 身にもあわれは 知られけり 鴫立澤の 秋の夕暮れ」と詠んだ西行法師の名歌を慕って崇雪がここに草庵を結んだのが「鴫立庵」。数ある歌碑、句碑の中に芭蕉句碑も。

 鴫立庵を出たら道路右側に移り、少し先の「旧島崎藤村邸」(左)への案内板に従って路地を行くと柴垣に囲まれた「藤村邸」があった。藤村は昭和16年からこの家に住まわれ2年後の昭和18年にこの家で永眠している。

 国道に戻ると「見事な松並木」(右)が見えるではないか。なにげに左手を見ると看板が。何か有りそう、と向こう側に渡ってみると案の定上方見附跡の説明板であった。当時はここまでが宿内で、この先は松並木の街道歩きだったのだろう。

 このまま左側を歩いていると旧吉田邸と記された案内板。疑わず左に入って行くと海岸に出てしまいその先が分からない。国土交通省発行のガイドブックでは「一般公開はされていない」とあるので探すことをあきらめた。

 国道に戻りほどなくすると滄浪閣という大きな看板。なぬ、結婚式場? 松林の中にひっそり横たわるお屋敷を想像していたが大はずれ。「滄浪閣」はホテルの中に実在し、現在は北京料理店になっているようだ。ちなみに滄浪閣は伊藤博文公の旧居。 敷地の外れに「伊藤公滄浪閣の跡地碑」(左)が有ったのでよしとするか。
 

 滄浪閣から1kmほど歩き「切通橋」の先から右に入る道が旧東海道。静かな町並みを15分ほど歩くと再び国道1号に合流する。その少し手前に17番目の一里塚跡(国府本郷一里塚)があった。今は標柱と説明パネルが建てられているのみ。

 旧東海道と国道1号が合流する「国府新宿」交差点の右側に6個の大きな石「国府祭(こうのまち)坐問答石」(左)が置かれている。

 ここで面白い話を一つ。
 「大化の改新」で相武の国と磯長の国が合併、相模の国が生まれた。この時、新しい国司巡拝の順序でもめたが「いずれ明年までに結論を」と仲裁が入りとりあえず円満解決。今で言う「先送り」ですな。以来千数百年、いまだに結論が出せないでいるという。6個の大石はそのときの坐問答の様子を示したものだそうだ。  

 この先3km近くをてくてくと歩くと旧東海道の名残りという標柱が有るので右の道に。旧道はどこも静かで良い雰囲気だ。再び国道1号に合流するが、合流点に道祖神が祀られている。

 500mほど歩き押切坂上で今度は左の旧道に入って行く。入るとすぐに18番目の押切一里塚があった場所に「一里塚跡碑」(左)が建てられている。隣に松の木が植えられているとは憎い演出だね。

 押し切り坂の途中に道祖神が祀られていたが、まさに「路傍の道祖神」(右)という風情で思わず1枚撮ってしまった。どの辺からだろうか、道祖神がよく目につくようになった大磯宿である。
 

 このあと押切坂を下って国道1号に合流するのだが、「小田原宿」まではまだまだ遠い!とりあえずJR国府津駅までテクテクと。

前の宿場平塚宿へ    次の宿場小田原宿へ    表紙へ戻る