東海道五十三次道中記



(2)川崎宿  「蛇も蚊も」と奇妙な言葉が              川崎宿街道地図


 川崎宿は、宿駅制度発足より20年ほど遅れて制定された宿場であったが、東海道を往来する旅人の宿とともに、厄除けで有名な川崎大師の参拝客でも大いに賑わった宿場であった。 しかし、度重なる火災や戦災で昔の面影はほとんど残っていない。


平成17年11月1日

 
六郷大橋の歩道階段を下りると目の前が川崎宿の入り口。まずは橋桁に沿って左に曲がり「渡し場跡碑・川崎大師灯籠」(左)、そして今 渡ってきた六郷大橋を眺めることに。

 ここには徳川家康が架けた橋があったのだが洪水で流され、明治に入るまで船渡しだったとのこと。 

 川崎宿に入ると、宿の入り口に「旧東海道」(右)と刻まれた石標が建てられている。 


 宿場入り口の右側が万年屋が有った場所。万年屋の「奈良茶漬け」は弥次さん喜多さんも食べたほどの有名な茶漬けだったらしい。

 100mほど歩くと左側に「川崎宿史跡めぐり案内板」(左)が建てられている。これは参考になった。

 道路右側に移ると、そこは「田中本陣跡」(右)。

 田中本陣は寛永5年(1628)に設けられたという宿内最古の本陣。主人の田中休愚は、本陣・名主・問屋の三役を務め、後には幕府の勘定支配格(大名並)にも登用されたという。

その先には宝暦十一年の大火と書かれた立て札がある。

 この先の宗三寺飯盛女の供養塔を探したが残念、見つからない。


 ちょっと寄り道を。稲毛神社「小土呂橋の遺構」(左)なるものがある。東海道が新川堀を横切る所に架けられていた石橋の一部で、寛保3年(1743)に架設されたもの。


 東海道に戻り小土呂の交差点を渡ると、先ほど見てきた小土呂橋の「親柱」(右)がニョキッと2本。この橋の上を将軍や多くの大名、時には象や駱駝も通ったわけで、貴重な遺構だ。


 小土呂交差点から真っ直ぐな八丁畷を歩くと、八丁畷駅の手前に植え込みがあり小屋の中に「芭蕉句碑」(右)が。
    「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」 
元禄7年(1694)5月、故郷の伊賀国柘植庄へ帰る芭蕉を見送りにきた門弟たちとの惜別の句だ。

 八丁畷駅の踏切を渡ると、すぐの左側に「慰霊塔」(右)がある。川崎宿では 度重なる大火や洪水・飢饉・疫病で多くの人々が落命したが、身元不明者をこの辺りに埋葬したのだという。思わず合掌。



 「八丁畷」(左)をしばらく歩くと右側に熊野神社があるが、荒れ果てており寂しい風景となっている。同行のU氏によると、昔は大変賑わっており、お祭りの時などは人があふれかえっていたのだそうだ。 
 
 熊野神社から300mほど先の左側にあったのは日本橋から5番目の「市場村一里塚」(右。

 この大都会に高輪の大木戸石垣とともに現存しているということは貴重なこと。柵で囲われ、碑も建てられ、説明板も設置されている。大事にされているようだ。



 鶴見橋を渡るとすぐの左側に「鶴見関門跡」(左)がある。神奈川奉行は、開港とともに外国人への危害防止のため関門を設けて、横浜に入る者をきびしく取り締まったそうだ。その内の一つがここである。

 京急鶴見駅のガードをくぐり、商店街を真っ直ぐ歩くと国道15号にぶつかるので横断。

 まもなくJR鶴見線の「国道駅」(右)が見える。旧東海道とは関係無いが寄ってみた。トンネルの中に入ったような通路の両側に店が並んでおり独特の風景を醸し出している。


 国道駅の先は魚河岸通り。400mの間に80軒ほどの魚屋さんがあり午前中は大変な賑やかさだという。

 魚河岸通りの終わり近く、「道念稲荷」(左)入り口に「蛇も蚊も」というなんとも奇妙な言葉が。

 約300年前、この地区に悪病が流行したそうだ。そのとき萱で作った蛇に悪霊を封じ込めて海に流したのが起源の行事で「蛇も蚊も出たけ 日和(ひより)の雨け 出たけ 出たけ」 と大声で唱え海に流したのだとか。

 横浜市指定の無形民族文化財である。
   



 そろそろ「生麦事件碑」が現れる筈だが、と見ると民家の塀に「生麦事件現場」(右)と記された説明書きが。 エーッこれだけ。あれだけの事件がたったこの一枚?いくらなんでもちょっと酷い仕打ちでは。しかし場所が違う。他に有るのでは。


 「昔懐かしいお米屋さん」(左)があったので写真を撮っていたら「中も撮っていきますか」と声をかけられた。いやいや、中まで撮らせてもらうのは恐縮ですと丁重にお断りしたが、昭和30年代頃を思わせる雰囲気がなつかしい。


 足は棒のようだし、暗くなってしまったので今日はここまで。同行のU氏とともに京浜急行の生麦駅へ向かった。

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