東海道五十三次道中記

(3)神奈川宿  なんと、横浜で松並木を歩く         神奈川宿街道地図
 神奈川宿は現在の京浜急行神奈川新町駅辺りから青木橋を越えて横浜駅西口の裏辺りまで海岸沿いに開けた宿場であった。景勝地であったことから宿泊客のみならず遊山の客も多く、大変な賑わいの宿場であったようだ。 また日米修好通商条約が結ばれた後は多くの国の領事館が置かれ、近代国家幕開けへの架け橋となった宿場でもある。


平成17年11月8日

 今回のスタートは生麦事件現場前からだ。

 街道を真っ直ぐ進むと、信号の先、国道15号に合流する個所の「生麦事件之跡」(左)と記された場所に生麦事件の碑が建てられている。何故現場から数百メートルも離れた場所に設置したのだろうか。

 説明書きを読むと、この場所はイギリス人のリチャードソン落命の場所だそうだ。必死の思いでここまで逃げてきたんだろうなー。

コメント:生麦事件の碑があるこの場所は首都高速道路建設の影響で取り壊され、「200mほど手前に仮移設」(右)されている。  


 「NPO法人神奈川東海道ウオークガイドの会」の作地様から「東子安一里塚」の案内板を設置しました、とのメールを頂きましたので、さっそく見に行ってきました。

 
旧道から国道15号(第一京浜)に合流して5〜6分歩くと「東子安一里塚説明板」(右)が設置されている。 神奈川県内20ヶ所の一里塚跡で唯一目印が無いのが「東子安一里塚跡」であったことから、分限延絵図を参考にして場所を特定し説明板を設置したのだそうだ。
ありがたいことです。
 

 ほどなく公園の前に出るが、公園の中程に「オランダ領事館跡碑」(左)が建てられている。 ここは元々は長延寺という寺院があった場所で寺院が領事館に当てられていた。

 この先は寺院が多いが、多くは領事館やその宿舎に。

 公園前の道を進むと「良泉寺」(右)の裏に突き当たるので左折して表に。良泉寺の住職は頑固。領事館に使われるのを嫌い、「本堂の屋根をはがし、寺は修理中である」と幕府の命令をことわってしまったのだとか。


 良泉寺の脇を通って京浜急行線のガードを潜ると、目の前に見えたのは朱鮮やかな「笠のぎ稲荷神社」(左)。

 社伝によると、天慶年間(938〜947)に創祀されたという古社。霊験あらたかで、社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちたことから笠脱大明神と称されたとか。後に 笠のぎ稲荷神社 と改称されたのだそうだ。

 境内の一角に鎌倉時代末期から南北朝時代初期の作と思われる「板碑」(右)保存されている。上部に阿弥陀如来をあらわす種字「キリーク」がクッキリと。

  再び街道に戻り、やや歩くと能満寺と神明宮があり、その先の神奈川小学校の塀に神奈川宿絵図パネルがはめ込まれている。この絵図を見ると当時の様子がよく分かり面白い。
 小学校の横から一旦国道に出て神奈川2丁目交差点を渡りすぐに右に曲がって金蔵院へ。

 「金蔵院」(左)は平安時代末期の開創と伝わる古刹。 かつては参道が東海道まで延び境内には熊野神社が並び立っていた。 また、本堂前には徳川家康の「御手折梅」と称される梅の古木があったという。

 その先の「熊野神社」(右)は平安末期に紀伊の熊野権現を祀ったのが始まり。江戸時代には金蔵院の境内にあったが、明治の神仏分離令で金蔵院から分離。

 ここでびっくり。なんと[松並木」(左)が出現。金蔵院前から200mほどの道路両側が松並木となって独特の風景を造り上げている。旧建設省か、横浜市か分からないがやることが粋だね。 
  
 松並木を100mほど進むと左側に復元された「高札場」(右)が。かなり大きいので驚いた。一見の価値あり。

 この先でヘボン博士の宿舎であった成仏寺を見たら、その先の滝川手前を右へ曲がり慶運寺へ。


 慶運寺はフランス領事館として使われたが浦島太郎が竜宮城から持ち帰ったという観音像が保管されていることで有名な寺。その観音像は本堂左手の「観音堂」(左)に安置されている。

 観音堂の横に、なんと、「浦島太郎父子の齢塚」(右)があるではないか。「父 浦島太夫 子 浦島太良」と刻まれた墓石は火災で焼けてしまった観福寿寺から移されたもの。

 この辺りには浦島町・浦島丘・亀住町など浦島伝説にちなんだ地名が何カ所かあり、浦島太郎伝説をもっともらしくしている。

  もとに戻り滝川沿いを国道15号まで来たら滝の橋を渡って宗興寺へ向かうことに。  まてよ、滝の橋を渡るということは、この橋に繋がる国道が旧東海道?そうなんです。
 実はいままで歩いた道は旧東海道の1本裏道。しかしここは裏道にかぎる。因みに、滝の橋際の説明板によると、江戸側に神奈川本陣、反対側に青木本陣が置かれていたそうだ。

 滝の橋を渡ったら宗興寺に寄道を。

 アメリカ人宣教師で医者であったヘボン博士が宗興寺に施療所を開設したのは文久元年(1861)。門を入った正面にこれを記念した「ヘボン博士施療所碑」(左)が建てられている。

 宗興寺の裏側にあったのは「神奈川の大井戸」(右)。この井戸は東海道中の名井戸に数えられ、徳川将軍のお茶の水に充てられたと伝えられている。


 街道に戻ったら、幸ケ谷小学校の先きから宮前商店街に入って行く。

 商店街からちょっと奥に入った高台の「洲崎大神」(左)は建久2年(1192)、源頼朝が安房国一宮・安房神社の霊を移して祀ったことに始まると伝えられている。

 江戸名所図会を見ると海に向かって伸びる参道の先、国道15号に突き当たる辺りに船着き場があったことが分かる。

 すぐ先の路地を入った先の「幸ケ谷公園」(右)は北条早雲が上杉朝良と戦った権現山合戦跡。 ところで、幸ケ谷公園にいた猫がとっても可愛いかったんだ。写真を撮ろうとしたらこんなポーズを

 街道に戻ったらイギリス士官の宿舎に充てられた普門寺、フランス公使館が置かれた甚行寺などを見て青木橋へ。

 青木橋の袂に「東海道分間延絵図」(左)とその説明パネルが嵌め込まれているが、いままで歩いた道、これから歩く道がよく分かる。

 青木橋を渡ると右側の高台に寺院があるが、ここはアメリカ領事館の置かれた「本覚寺」右)。

 本覚寺を見た後、旧街道に戻り200mほど歩くと右側に金刀比羅宮の赤い鳥居が目に入る。ここは日本橋から7番目の神奈川一里塚が有った場所。


 だらだら坂を登ってゆくと文久3年(1863)創業という「料亭田中屋」(左)が目に入った。真っ赤な傘と縁台がなんとも色っぽい

 江戸時代、この辺りは風光明媚な場所だったそうで遊山客も多かったようだ。今は見渡すかぎりのマンション。江戸時代と大違いである。

 坂を登り切った右側に「神奈川関門台跡」(右)がある。植え込みの中に「跡碑」が建てられ説明板も設置されているが、ここは鶴見橋関門と対をなす神奈川宿の西側の関門であった。


  このあと坂を下り上台橋を渡って直進。高速道路の下を通ったら環状1号道路に入りしばらく歩くと浅間下の交差点近くに到着する。
 交差点を渡ったら交番の脇から公園の中を通り抜け細い道に入って行く。 浅間神社にちょっと立ち寄って旧東海道の旅を続けるが車が少なく静かな道だ。

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