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東海道五十三次道中記

(6)藤沢宿     おしゃれなお地蔵様を発見。              街道地図

 「藤沢宿」は東海道を行き来する旅人だけではなく「遊行寺」への参拝客、あるいは「江ノ島弁財天」への参詣客などでも大いに賑わった宿場であった。 戸塚宿から藤沢宿までは地響きを上げて通り過ぎるトラックに付き合って歩いたが、江戸時代は静かだったのだろうーな。

平成17年11月16日

 国道1号と分かれて左の道(県道30号)に入るとすぐに、左側の一段高い松並木の中に小さな祠が有り、都会ではめったに見られない「夫婦道祖神」(左)が祀られていた。懐かしいなー。

 この先で右側に移りしばらく歩くと「旧東海道松並木碑」(右)がある。

 この辺りは、かつては鬱蒼(うっそう)たる松並木が続いていたのだが、昭和35年ごろから発生した松食い虫の被害で大半が枯れてしまい、かろうじて2本だけが残ったのだそうだ。


 その先の遊行寺坂を下ると「遊行寺坂一里塚跡」(左)の説明板と標柱が建てられている。
説明板によると、現在の道路は切通しを掘り下げたもので、かつての一里塚は崖の上にあったそうだ。ということは当時はかなりキツイ坂道だったのだろう。

 さらに坂を下った右奥の寺院は正中2年(1325)創建の遊行寺。
堂々たる「本堂」(右)は東海道随一だという。
  《遊行寺は通称で、正式には清浄光寺》

 境内に入って最初に目にするのが「銀杏の大木」(左)。
幹回り6.8mという県内屈指の大きさで樹齢は700年だそうだ。 

 境内右手の石塔群は「藤沢敵御方供養塔」(右)。
室町時代、上杉氏憲の反乱を幕府が鎮圧した際、遊行寺住職が両軍隔て無く負傷者の治療を行い、戦没者には敵味方区別なく供養塔を建立し弔ったという。ナイチンゲールの何百年も前の話である。


 境内右手の坂を上って行くと長生院(小栗堂)にたどりつく。このお寺の裏にあるのは小栗判官と十勇士の墓および照手姫の墓。その前には「照手姫建立の3体の地蔵尊」(左)が微笑んでいる。
 

 正面参道を下り「遊行寺橋」(右)を渡って街道に出たのだが、ここで「なるほど」と納得した事がある。旧街道は遊行寺のところで何故か鍵の手に曲がるが、理由はこの橋を渡るためだったのだ。


 街道の右側を歩くと、昔懐かしい建物がちらほら有り、今までとはちょっとだけ違う。ほどなく歩道の端に蒔田本陣跡の標柱が。

 本陣跡標柱の少し先の路地を右に入ると「源義経首洗井戸」(左)がある。
 藤原秦衡に襲撃され自害した源義経の御首は、鎌倉に送られ首実検。後に腰越の浦に捨てられたという。ところが白旗神社の近くに流れ着き里人によって洗い清められ葬られたのだそうだ。

 街道に戻り次の交差点でちょっと寄り道をして白旗神社へ。 ここにも「芭蕉句碑」(右)が。
 「草臥れて 宿かる比や 藤の花」くたびれて やどかるころや ふじのはな 


 再び街道に戻り小田急線・伊勢山橋を渡った少し先の右側にそっけなく見附跡とだけ記された標柱があった。標柱を建ててくれただけでもありがたいのだが、せめて「上方見附跡」ぐらいにはして欲しかった。藤沢市教育委員会さん、次の時はお願いしますね。


 引地橋を渡った先の左側に小さな祠があり、中に 「おしゃれな地蔵様」(左) が鎮座している。地蔵というより夫婦道祖神だが。 この地蔵様は 「女性の願いならなんでもかなえて下さる」 そうだ。満願のあかつきには白粉を塗ってお礼をすることから「おしゃれ地蔵」と地元の人は言う。

 まもなく国道1号に合流。合流した向こう側に小さな御堂が建っている。四谷辻の「四谷不動と大山道道標」(右)である。堂外の初代道標は万治4年(1676)に江戸浅草蔵前の大山講中が建てたもの。


 四谷不動のちょっと先に辻堂一里塚跡標柱が建てられているが、ここも一里塚跡とだけ記されたぶっきら棒なもの。この先は国道1号を歩くことになるが、
松並木が続き「東海道を歩いている」そんな雰囲気が楽しめる街道歩きである。

 松並木が終わった先の交差点まで来ると「茅ヶ崎一里塚」(左)が現存している。残念ながら片側だけだが貴重な現存一里塚。ビルの影になってしまったが、江戸時代なら遠くから一里塚と分かっただろう。
  

 茅ヶ崎一里塚から1kmほど歩くと、道が大きく右にカーブする。その先の鳥井戸橋を渡ると「南湖の左富士の碑」(右)が。ここは安藤広重も五十三次絵で描いている有名な場所。

 残念ながら左富士は見えなかったが、実は東海道には 左富士 がもう1カ所ある。

 道路の向こう側に真っ赤な鳥居が見える。鶴峯八幡宮への参道入り口であるので遠いがちょっと寄り道を。鳥居をくぐると右側の民家の塀に「弁慶塚」(左)の案内板が有るではないか。事前の調査では、どの資料にも記載が無かったので儲けた気分。
  

 建久九年(1198)12月、源頼朝は橋の落成式に参列。  帰途、義経一行の亡霊が頼朝の前に現れ乗馬が棒立ちになり頼朝は落馬。 これがもとで頼朝は翌年死去。後年、里人たちが、義経一行の霊を慰めるためこの弁慶塚を造ったといわれているそうだ。

 このあと鶴峯八幡宮にお参りして「平塚宿」へ。

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