日光御成道  道中記  表紙に戻る

(2)川口宿

「路地」と呼ぶにはもったいないレンガ塀が続く路地がありました。

 「川口」と言えば「キュポラのある街」、となればサユリストならずとも吉永小百合が忘れられない。その鋳物産業の歴史は江戸時代にまで
さかのぼるが、今の川口宿は「
キュポラの無い街」となってしまった。 旧宿場街は「本一通り」と呼ばれ、5〜6分も歩けば通り過ぎてしまう
ほどの短い区間であるが、狭い路地を丹念に歩くと意外な発見がある。


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平成19年6月26日

 岩淵宿を抜けて新荒川大橋を渡るといよいよ埼玉県だが先ほどから小ぬか雨が降り出し「小雨に煙る荒川」(左)がなんとなく重苦しい景色となってしまった。

 橋を渡り荒川スーパー堤防の上にある小・中学校前を5〜6分歩くと、その先に「川口善光寺」(右)がある。

 広重の江戸百景めぐりにも「川口の渡し善光寺」として描かれている。手軽な善光寺参りとして江戸庶民の人気を集めていたようだが今は堤防の上に移設されかつての面影は全く感じられない。


 堤防上を元に戻り中学校前まで来ると「川口宿の入り口」(左)が堤防の下に見える。地図を見ると400m程の距離。ゆっくり見ても10分もかからずに通り抜けてしまいそうだ。

 堤防の階段を降り川口宿に入って行くのだが入り口の左側にある公園の一角に「鎌倉橋の碑」(右)が建てられている。

 中世の鎌倉街道中道(なかつみち)であったころの小川に架かっていた橋で、当時この地は奥州への街道の要所であった。


 川口宿に入ると早速 古民家が目に入る。「浜田接骨院」(左)の看板が出ているがこの建物は明治40年の建築だとか。古い建物を大事に残してくれるなんて嬉しいじゃないですか。

 ところで、本陣門の場所が分からず訪ねると本陣門まで案内してくれた親切な方が「五十嵐理容店」(右)のご主人。

 しかも「川口歴史WALK」というカラー印刷のイラストマップまで頂いてしまった。 なんと、マップの中にご主人の顔がイラストで載っているのです。このマップを見ると10分で通り過ぎるのはもったいない。
  


 「川口宿本陣門」(左)は浜田接骨院の少し先の路地を左に入った所に有りました。路地の奥に有るので探しても見つからないはずだ。本陣の門が街道に面していないのは珍しい。

 街道に戻り五十嵐理容店の先を左に入ると「発電所跡」(右)の煉瓦造りの建物が見られる。 埼玉県内で一番早く電気が使われた場所でキュポラに風を送るための動力用だそうだ。

 この敷地内には立派な洋館も見られる。


 街道に戻りちょっと歩いた右側の「中西日進堂薬局」(左)は大正時代の建物。実はその2〜3軒手前の「正木屋」という衣料品店はもっと古く明治時代の建物だが残念ながら看板に隠れて見えない。

 五十嵐理容店のご主人が「時間は大丈夫かい」といって案内してくれた場所が中央公民館の中の鋳物資料室と文化財センター

 共に鋳物に関する様々な資料が展示されているが小学校時代に世話になった「ダルマストーブ」(右)がありました。懐かしーい。この形は川口鋳物の特徴なんだそうだ。  


 五十嵐さん、ありがとう御座いました。街道に戻った後はイラストマップを見ながら川口宿を散策することに。

 街道の突き当たりに「ミニ公園」(左)があり川口宿絵碑と鍋屋の井説明碑が建てられている。かつては豊富な地下水が川口に集まり各地に「吹き井戸」があったそうだ。

 このまま真っ直ぐ街道を進むのはもったいない。イラストマップでは斜め左に戻る道が面白そうだ。

 数分歩くと道路の向こう側に立派な門が見える。イラストマップによると「川口小学校(現在の本町小学校の前身)校門」(右)だったのだとか。一見すると本陣の門のような。


  その先数分のところに川口の総鎮守川口神社がある。 社伝によると平安時代からの長い歴史が有る神社だが鋳物との関わりは意外と新しく、明治42年に金山権現社を合祀してからだそうだ。

 その「金山神社」(左)の社殿が境内右手にあるが、こちらが川口鋳物の守り神様である。

 川口神社前の路地を入ると「柴崎米店」(右)という昔ながらのお米屋さんがある。店内の作りも昔のままなのだとか。


 お米屋さん前の道を突き当たったら左に右にと曲ると、なんと、川口宿で唯一のキュポラが有る関口鋳工という鋳物屋さんがあった。

 直接見るわけにはいかないがキュポラの煙突」(左)だけは見ることができる。鋳物資料室で見たキュポラの模型と同じだ。

 この後は川口の路地巡りをすることに。幅1mほどの路地、結構長い距離の路地、行き止まりの路地など様々あるが、「かじまの路地」(右)は片側にレンガ塀が続いており、路地と言うにはもったいない。  


 路地巡りを終わって街道に戻ると昼12時を過ぎている。なんと10分で通り過ぎるはずが1時間半近くも歩き回っていたのだった。この後、イラストマップにある「レストランフジイ」で昼食を。マップには「日替わりランチもGOOD」とある。この日はハンバーグとエビフライだったが旨かった。 街道はミニ公園前の広い道路を横切って向こうの細い道に続いている。


 細い道を100mほど歩くと「凱旋橋欄干」(左)が足下に。日露戦争に拘わる橋であったが川は無くなり欄干だけが残ってしまった。

 その先の錫杖(しゃくじょう)は養老元年(717)に本堂が建立されたという古刹であるが徳川将軍日光社参の際の休息所となり三ツ葉葵の使用が許されている。

  境内右手に「地蔵堂」(右)があるが正式名称は地蔵尊院。三ツ葉葵のために翻弄された寺院であった。 現在は錫杖寺の住職が御守りしているのだとか。


 街道に戻ると、この先は国道122号が御成道。今はトラックがうなりを上げて通り過ぎてゆく。

 街道をてくてく歩き12月田(しわすだ)交差点を過ぎる街道右側に3階建て煉瓦造りの「旧田中家住宅」(左)が姿を現す。

 明治・大正時代に味噌醸造で財を成した田中家が大正12年に建築したゴシック様式の洋館で高い建物が無いこの辺りではランドマーク的存在の建物である。

 「刃物博物館」(右)という珍しい資料館があった。刃物会社が収集した刃物を展示しているのだが最近は大工さんからの寄贈が多いそうだ。後継者のいない大工さんが思い余って持ち込むのだとか。

 刃物博物館の少し先の薬林寺入口に「庚申塔」(左)がある。この庚申様は鼻も口も分からなくなるほどお顔が磨り減っている。きっと昔の人たちが霊験を信じてお顔をなでたのだろう。

 ところで、この辺りの御成道を土地の古老は「しんけいどう」(右)と呼んでいるが次のような云われがあるそうだ。

 御成道は、当初は薬林寺の西側を通っていた。あるとき、ここを通った将軍が村の若い娘を見初めて側室にしたいと駄々をこねてしまったそうだ。そこで家臣が計って、帰路は別の道を通ってしまったのだとか。その道が現在の「しんけいどう」である。

 しんけいどう(新街道)の道路標示に「鳩ヶ谷」の文字が見えてきた。いよいよ次の宿場「鳩ヶ谷宿」が近い。

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