日光街道道中記
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(7)栗橋宿

ついに見ました、板東太郎を。

 箱根・碓井と並ぶ重要な関所である栗橋関が置かれた宿場であったが、元々からあった宿場ではなく栗橋村の住人が機能を整えた上で
幕府に願い出て開いた宿駅である。後に、利根川の向こうにあった関所が栗橋側に移されたことから大変賑わた宿場である。

平成19年3月13日

 国道の左側を20分ほど歩いただろうか。「小右衛門一里塚」(左)に到着。ここは現存の一里塚であるが、塚の上に神社があるので一里塚らしくない。残念だなー。

 単調な道がまだまだ続く。新幹線の下を通り、一旦国道に合流したあと、すぐに左に下って行くと旧日光街道に入れる。

 静かな街道を10分ほど歩きY字路を右に入ると、「会津見送り稲荷」(右)の赤い鳥居が見える。江戸時代、会津藩士が道に迷ったとき助けてくれた老人が、実は狐の化身だったのだとか。

 この先で再び国道に合流するが、すぐに側道を下り、突き当たり左側のトンネルをくぐって旧日光街道に入って行く。 実はこの辺りも、どれが正しい旧街道であるのかよく分からない。

 住宅街の狭い道から比較的広い道路に出ると右側に「焙烙地蔵」(左)の祠が見える。
 むかし、この地に刑場があり、関所やぶりの重罪人は火焙りの刑に処せられてしまった。地元の人々は処刑者を憐れみ、火焙りになぞらえて「焙烙地蔵」として祭ったのだそうだ。
(東海道・宮宿でも焙烙地蔵を見たが、その云われとは大変な違いだ)
 
   
 この先は利根川まで旧日光街道の町並みが続くが、数分歩いた右奥、「顕正寺」(右)の墓地には栗橋宿を開き、本陣役まで務めた池田鴨之助が眠っている。


 さらに数分歩いた左奥の「深廣寺」に、高さ3.6mの「六角名号塔」(左)と呼ばれる珍しい供養塔がある。伊豆大島から持ち帰った石を刻んだ物だとか。すごい迫力。
    

 街道に戻ると、あちこちの電柱に赤いマークが。 昭和22年(1947) の台風で利根川が決壊したときの「洪水の水位」(右)だそうだが、2mを超す高さ。うーん、絶句!

ここから平成19年3月20日  

 「しずやしず 賤のをだまき・・・・」といえば静御前であるが、JR栗橋駅前の公園に「静御前の墓」(左)がある。

 「源義経を追った静御前、義経討死を知り失意のうちにこの地で死去。 高柳寺に葬られた」のだとか。 和泉式部ならいざしらず、貞淑な静御前の墓もあちこちにあるようだ。

 街道に戻り、真っ直ぐな道を利根川の土手に向かって進むと、土手の手前、右奥に池田家の「本陣跡」(右)がある。道路反対側に脇本陣が有ったと言うことだが、分からない。
  

 本陣跡の少し先を右に入ると、「栗橋関所跡碑」(左)が建てられている。箱根・碓氷などと並ぶ需要な関所で、特に「入り鉄砲と出女」を取り締まっていたが、今は石碑のみとなってしまった。

 街道に戻ると、道路向こう側に「八坂神社」の鳥居が見える。この神社には、なんと狛犬ならぬ「狛鯉」(右)が。しかもちゃんと「阿形・吽形」の一対で。

 ところで本殿の回りには日枝神社や御嶽山神社、秋葉山神社など幾多の神様が鎮座している。どこへお参りすればよいのやら。


 神社左側を道なりに進むと、高く土盛りされた「関所番士屋敷跡」(左)が見られる。 現在もここに住まわれている足立家は寛政12年(1800)に金町松戸関所からの転勤だそうだ。

 街道に戻り、交差点向こうの土手を駆け上ると、

ついに見えました板東太郎と呼ばれる「利根川」(右)が。彼方に筑波山が見える。振り向けば栗橋宿が一望。なんとその先に富士山がくっきりと見えるではないか。

 川の向こうは常陸国(茨城県)。橋を渡ると中田宿が待っている筈だが。
  

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