日光街道道中記
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(6)幸手宿

「螺不動」に「タニシの絵馬」、うーん是非見たいのだが。

 幸手(さって)宿は日光街道と日光御成道の合流する宿場として、また権現堂川・江戸川河岸に廻船問屋が建ち並ぶ物流の中継地としても
 栄えた宿場であった。

平成19年3月13日

 江戸から11番目の茨島一里塚跡を過ぎ、15分ほど歩くと旧日光街道は国道4号と分かれて左に入って行く。

 20分ほど歩くと、日本橋から本郷・川口・岩槻を通ってきた「日光御成道と合流」(左)。

 徳川家光の時代に整備された御成道は、将軍が東照宮に参詣する際「おなり」になった道筋であった。

 御成道と合流して右に曲がり少し歩くと、左奥に源頼朝が奥州征伐のおり、戦勝祈願して開基した寺だと伝えられている「神宮寺」(右)が見える。

 東武日光線の踏切を越え「志手橋」を渡ると、神明神社が右奥に鎮座しており、境内には通称「たにし不動」(左)と呼ばれる お不動様が祀られている。

 説明板には 「たにしの絵馬を奉納・・・」と記されている。田螺の絵馬? 興味津々で探したが残念!見つからなかった。ぜひ見たいのだが。

 この先から幸手宿となるが、交差点の左側に「明治天皇行在所跡碑」(右)が建てられている。お泊まりに成られた場所ということではなく、他所にあった碑をここへ移設したようだ。

 幸手宿も国道4号から外れているが、往時の面影はあまり感じられない。「日光街道」(左)と記されたプレートが、わずかに旧街道であることを教えてくれる。

 次の変則交差点左側のうなぎ屋さんの前に「本陣知久家跡」(右)の説明板が有るが、読んでビックリ。

 知久家は本陣・問屋・名主の三役を兼務しており、明治九年には天皇も宿泊されている、とのことだが、その屋敷の大きさである。 間口39m・奥行き80m、約千坪とある。千坪とはビックリした。  


 本陣跡から7〜8分歩いた先の左奥、聖福寺の山門は、下々は通ることが出来ない「勅使門」(左)である。ここは三代将軍家光をはじめとして多くの将軍が休憩した御殿所であった。

 芭蕉に同行した曽良が勅使門を折り込んだ句を詠んでいるが、入り口に「芭蕉と曽良の句碑」(右)が建てられている。 
 「幸手を行ば 栗橋の関   蕉」
 「松風を はさみ揃ゆる 寺の門   良」 

 街道に戻ると、突き当たりに大きな常夜灯があるが、その奥は「正福寺」で、街道は手前を右に曲がって行く。

 曲がり角の両側が「幸手一里塚跡」(左)だが、今は説明板が建てられているのみである。

 右へ曲がってすぐの所にある石太菓子店の「しおがま」は絶品。口に入れると、すーっとくずれ、ほんのりした塩味がたまらない。

 石太菓子店の先を左に曲がり、少し先の高校裏まで歩くと「橘守部翁遺跡碑」(右)を見ることが出来る。  翁の誕生地碑を三重県・朝日町で見たが(東海道・桑名宿に記載)、ここで再び会えるとは。

 国道に合流して10分ほど歩くと、「権現堂堤の桜並木」(左)に到着するが、ここの桜並木は見事!咲いたら見応えがありそうだ。

 権現堂堤は、天正4年(1576)頃から築き始めたそうだが、権現堂川の暴れぶりは凄かったらしい。氾濫すると大江戸八百八町までもが水浸しになったのだとか。

 明治に入っても堤の修復が行われていたが、東北ご巡幸途中の明治天皇がその労をねぎらったことに由来した「行幸堤碑」(右)が国道脇の堤防の上に建てられている。

 その先の「行幸橋」を渡り、国道を横断して左側に下って行く道が旧日光街道であるが、国道の横断が怖い。  旧街道に入ると、とたんに静かな街道にかわり、ノンビリと歩くことができる。

 10分ほど歩くと安永4年(1775)に建てられた「追分け道標」(左)がある。ここは筑波道との分岐点、道標には「左日光道」「右つくば道」と刻まれている。

 街道を先へ行くと、正面に「雷電神社」(右)が見える。この先の旧日光街道は国道4号でズタズタ状態。ここは逆らわず、右に曲がった後は国道4号の土手下道をどこまでも歩くしかない。

 土手下道を歩いた先は埼玉県最後の宿場である栗橋宿であるが、しばらくは単調な道が続きそうだ。 

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