日光街道道中記
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(2)草加宿

草加宿のハイライト 『日本の道百選 日光街道・草加松原 』 うーん素晴らしい!

 草加宿は街道の整備より少し遅れた寛永7年(1630)に開かれた宿場である。 本陣1、脇本陣1、旅籠67軒という規模の宿場であったが、2度の大火に襲われ、最近はマンションの建設工事があちこちで行われるなど、往時の姿が急速に失われつつある。

平成19年2月26日

 千住宿を過ぎ、竹の塚を過ぎ、国道4号を横断して県道49号に架かる「毛長川の水神橋」を渡ると埼玉県の草加に入る。

 10分ほど歩いた右側の「富士浅間神社」(左)は、天保13年(1842)に再建されたのだが、本殿の随所に素晴らしい彫刻が施されている。残念ながら金網囲いであるため写真写りが大変悪い。

 浅間神社から10分ほど歩くと、交差点右側にお堂が見えるが、これは「ひあぶり地蔵」(右)と言われている。

 奉公に出ていた娘さん、母危篤を知り暇を願い出たが許されず。ご主人様の家が焼ければ母に会えると放火。捕らえられ、ひあぶりで処刑されたのだとか。


 県道49号から左に入ると、市役所の前に小さなお堂が見える。江戸中期ごろに建てられた「浅古家地蔵堂」(左)であるが、草加宿南限の邪神を防ぐ境神であったそうだ。
 

 旧街道沿いに「格子戸の古民家」(右)が何軒か見られるが、目につくのは大きなマンションやマンション工事などばかりで、残念ながら宿場町としての面影はあまり感じられない。

 なにか手掛かりはないかと向かった先が「草加市歴史民族資料館」であるが、本陣跡が小学校に、明治天皇行在所跡がマンションになったという程度しか分からなかった。(歴史民俗資料館は草加小学校の裏なのでちょっと分かりにくい)


 八百屋の前に、金具で補強され「千住町へ・・・ 越ヶ谷町へ・・・」と刻まれた「道標」(左)がある。この道標は明治期に建てられたものであるが、ここは元問屋場が有った場所だそうだ。

 道標の少し先の「おせん茶屋公園」(右)は草加煎餅の元祖「おせん婆さん」にちなんで名付けられた公園名であるが、おせん茶屋があった場所ではなさそう。

 直線だった旧街道が右に曲がると、県道と交差する左側に「草加せんべい発祥の地碑」(左)が建てられている。

 草加松原で茶店を出していた「おせんお婆さん」が売り出したのが「おせんべい」と呼ばれるようになったのだとか。 でも、これはあくまでも俗説。その前から塩煎餅が作られていたそうですよ。

 県道を横切り、雰囲気のある「6丁目橋」(右)を渡ると右側が、綾瀬川畔に作られた「札場河岸公園」で橋の向こうに望楼が見える。 


 河岸公園を右手に少し歩くと「甚左右衛門堰」(左)を見ることが出来る。明治27年(1894)から昭和58年(1983)まで使われたという煉瓦造りの水門だが、アーチ形がなかなか美しい。
  

 望楼まで戻ると、芭蕉さんが立っている。「その日 ようよう早加(草加)という宿にたどり着きにけり」と、舟を降りた千住方向を眺めているようだ。


 正岡子規と高浜虚子が連れだって草加を訪れているが、虚子の句碑が建てられていた。
 「順礼や 草加あたりを 帰る雁   虚子」
ここには子規の句碑もあるのだが見落としてしまったようだ。

 その先1kmほどは「日本の道百選」(右)に選ばれた「日光街道草加松原」の松並木道。よく手入れされた、素晴らしい遊歩道である。


 石碑の先で、優雅にカーブを描く歩道橋は「矢立橋」(左)である。
 「行春や 鳥啼魚の 目は泪   是を矢立の初として、行道なをすゝまず」にちなんで付けられたのだそうだ。
     

 「矢立橋の上から前方を眺めると」(右)、ゆったりとした松並木の遊歩道と「綾瀬川」が彼方まで続いている。
なんと贅沢な歩道橋、そして贅沢な遊歩道であろうか。

 矢立橋の次の歩道橋は「奥の細道」冒頭の
 「月日は百代の過客にして行きかう年もまた旅人なり」から採られた「百代橋」(左)である。
  

 百代橋を下ると
 「今年元禄二とせにや 奥羽長途の行脚 只かりそめに思ひたちて・・・・・」と刻まれた「芭蕉文学碑」(右)が建てられている。

 入り口の河岸公園に高浜虚子の句碑が建てられていたが、虚子に反旗を翻した「水原秋桜子の句碑」(左)も建てられている。
 「草紅葉 草加煎餅を 干しにけり   秋桜子」
 

 草加松原の遊歩道も終わり、高速道路下のトンネルを抜けると、大きな壁画が3枚。
 草加宿にたどり着いた芭蕉と曽良の旅姿が絵タイルとなっている。右写真はその内の1枚。

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