日光街道道中記
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日光東照宮

東照宮陽明門は別名「日暮らし門」というそうだが、つぶさに見たら見飽きない門だ。

 「日光」の歴史は天平神護2年(766)に勝道(しょうどう)上人が四本竜寺を創建したことに始まるといわれている。以降、山岳信仰の拠点として発展。元和3年(1617)、日光山貫首の天海大僧正が徳川家康の遺言に従って遺骨を久能山から日光山に移し、東照社(後に東照宮となる)を創建したことで、一気に江戸幕府の重要な拠点となった。今のような絢爛豪華な社殿は三代将軍家光公により建て替えられたものである。

平成19年4月26日

 日光橋の上流側に修復が終わった朱色の「神橋(しんきょう)(左)が見える。かつては将軍と勅使しか渡ることができなかった橋。今は有料だが庶民も渡ることができる。
 (注:行き止まりの橋なので、対岸へ渡りきることは出来ない)

 日光橋を渡ると、目の前に大きな石碑が有るが、これは「並木寄進碑」。 傍らの説明によると、松平正綱親子が20余年を費やして20数万本の杉を植え、東照宮に寄進したのだとか。感服!

 寄進碑脇の階段を上がると東照宮までもうすぐだ。

 階段を上がり、左に右にと曲がり、「勝道上人銅像」の下を通って、なんとなく 広々した場所に入ると 「輪王寺・三仏堂」(左) の建物が目の前に見える。

このコースは、しいて言えば裏口から入ったような感じだ。

 三仏堂前を左へ歩くと輪王寺の表門である「黒門」(右)がある。この門は家康公を日光に祀った天海大僧正の創建。本坊が焼失したとき、唯一焼け残った建物である。

 黒門を出ると目の前が「東照宮表参道」(左)。 この日は雨が降ったせいか、杉並木の彼方がうっすら煙っており荘厳な雰囲気を醸し出している。

 この道を真っ直ぐ進めば東照宮だが、直行するのはまだ早い。

 「東照宮宝物館」に寄り道を。宝物館の見学もさることながら、入り口の左端に「芭蕉句碑」(右)がある。
 「 あらたうと 青葉わか葉の 日の光 
               芭蕉翁おくの細道日光山吟 」

 いよいよ東照宮に向かうわけであるが、「おやっ」と思うのが「五重塔」(左)。神社にお寺さんが、ということだが気にしない。この塔は文化14年(1817)に再建されたもの。

 五重塔を左に見て進むと、なんと「仁王門」。これも気にしない。神仏混淆時代の創建なのだから。

 仁王門を入り、左に曲がると、「神厩舎」の長押の上に三猿が。 子どものときは悪いことを「見ザル、言わザル、聞かザル」(右)。ちなみに、猿の彫刻は8面あり、猿の一生を描いている。


 神厩舎の先、階段下の右側に石灯籠ならぬ「鉄灯籠」(左) が2基。この灯籠は伊達政宗が奉納したもので、ポルトガルから鉄を取り寄せて鋳造したものだとか。さすが!伊達者の政宗。


 階段の上に絢爛豪華な「陽明門」(右)がそびえている。
一日中見ていても飽きないので別名「日暮らし門」。彫刻の数だけでも508体も有るのだとか。

 陽明門をくぐると、今日の最終目的地である「東照宮拝殿」(左)が塀の向こうに屋根だけ見える。本殿はさらにその向こう。

 拝観する前に右手の奥社参道入り口の坂下門に寄り道を。ここには左甚五郎作の「眠り猫」(右)がまだ眠っている。おかげで猫の裏側の雀は猫に食われないで今も元気だ。

 写真はここまで、この先は撮影禁止となる。


 拝殿を出て再度「唐門」(左)を見てみるとかなり豪華で華麗である。あまり彩色が施されていないので地味な感じだが、どうしてどうして、精緻を極めた彫刻の数々は陽明門以上だといわれている。
 

 東照宮参拝で日光街道の旅も終わったが、最後に寄り道した場所が「鳴き竜」である。陽明門を出て右側の薬師堂に入ると見ることが(聴くことが)できる。

 不思議なんですね。竜の頭の下で拍子木を打つと「るるるるるるる」と聞こえる。ところが、その他の場所では拍子木の「パン」という音だけ。いやー不思議だ。

  日光街道は総距離36里、約143km。 宿場間に見どころが少なく、単調な街道歩きが多かったが、最後に「日光杉並木」をたっぷり堪能し「東照宮」で終わるという、「終わりよければ全てよし」の街道歩きであった。日光では見落とした場所が沢山あるのでもう一度来たい場所である。 

 日光街道の旅は終わったが、宇都宮宿で別れた奥州街道が福島県の白河宿まで続いている。急いで宇都宮宿まで戻らねば。

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