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今市宿は日光街道・例幣使街道・会津西街道が合流する交通の要衝として発展し、宿内人口は1100人を超えていたとされる。元々は
「今村」と称されていたが街道が整備されると人が集まり市が立つようになったことから「今市」と呼ばれるようになった宿場である。 |
今回は栗橋宿からちょっと奥へ入った町の元特定郵便局長A氏と、日本全国の海岸線を車で旅しているY氏にも加わってもらい、 ちょっと賑やかに3人で日光街道最後の旅を楽しんできた。 |

杉並木道の終わった所が 「今市の追分け」(左)で左からの「例幣使街道」と合流して(注:写真は振り返って撮影)今市宿へと入って行く。
合流点の三角地帯に、とてもとても大きな「追分け地蔵」(右)が鎮座している。
丸彫りの石地蔵は座像であるが見上げるような大きさ。 製作年代は不明だが 八代将軍徳川吉宗の日光社参のとき、 すでに現在地にあったそうだ。
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追分け地蔵から2~3分歩いた先の右奥報徳二宮神社の裏に 「二宮尊徳の墓」(左)がある。
二宮尊徳は居住していた今市報徳役所内で70歳の生涯を閉じたが「墓石は建てるな」と遺言していた。 しかし門人や未亡人の意志により墓石の建立が行われている。
街道に戻り左側に移ると、おっ「こもかぶり」(右)ではないか。「日光誉」の醸造元 渡邊佐平商店 は天保13年(1842)創業の老舗。 純米吟醸酒一筋、こだわりがいいねー。
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日光誉の少し先に「今市の水」(左)が竹管の先から流れ出ている。今市の水は「おいしい水」なのだそうだが、うーん、おいしいと言われればおいしいような。
その先の車道際に今市町道路元標と刻まれた石柱がひっそりと立っている。
ここで街道の右に移ると「会津西街道相之道通り」(右)と記された標柱が建てられているが、ここは会津若松までの別名「下野街道」の入り口にあたる。
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その先の国道121号との交差点を渡ると、緑の広場入り口に「今市宿 二宮尊徳翁終焉の地」(左)と刻まれた標柱と「明治天皇御小休の蹟」(左)の石碑が建てられている。
二宮尊徳は文政4年(1821) に下野国に移り住み、その後半生を下野の復興に全精力を注いでいた。
70歳の生涯を閉じたのは居住していた報徳役所であるが、その「役所跡」(右)は緑広場から2~3分先の瀧尾神社前を左に入った奥で見ることができる。
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街道に戻ると交差点の右側から再び「日光街道杉並木」(左)が始まる。舗装されていない平坦な歩きやすい道だ。
ここで同行のA氏が「水車を見にいこう」と言うので、さらに右に入ると、なんと「重連の水車」(右)がゆっくりと回っている。この水車、「コットンコットン」とはいわず、ただただ回っているだけ。
この先でも多数の水車が見られるが、直径10mという巨大な水車も。
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 重連水車の先左側に「朝鮮通信使の客館跡」(左)がある。江戸時代、朝鮮通信使は12回来日しているが、そのうち3回、日光を訪れ宿泊しているそうだ。
しばらく歩くと左の高台に「高龗(たかお)神社」(右)がある。今市には同名の神社が十五社あるそうだ。
ごく普通の神社であるが神社名の文字が極めて稀。 文字を拡大すると「高龗神社」
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高龗神社から「杉並木道」(左)に戻るとその先に「瀬川一里塚跡」があるはずだが、どうも見落としてしまったようだ。
数分歩くと杉並木は途切れ瀬川の集落に入ってゆくが右側の並木公園内に天保元年(1830)に建てられたという「旧江連家」(右)が復元されている。
瀬川の集落を抜けると街道は再び杉並木となり、いよいよ日光が近づいてきた。
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