日光街道道中記
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(20)今市宿

「高 読めますか?神社名です。

 今市宿は日光街道・例幣使街道・会津西街道が合流する交通の要衝として発展し、宿内人口は1100人を超えていたとされる。 元々は「今村」と称されていたが、街道が整備されると人が集まり市が立つようになったことから「今市」と呼ばれるようになった宿場である。

平成19年4月26日

 今回は栗橋宿からちょっと奥へ入った町の元特定郵便局長A氏と、日本全国の海岸線を車で旅しているY氏にも加わってもらい、 ちょっと賑やかに3人で日光街道最後の旅を楽しんできた。

 杉並木道の終わった所が 「今市の追分け」(左)で、左からの「例幣使街道」と合流して(注:写真は振り返って撮影したもの。)今市宿へと入って行く。

 合流点の三角地帯に、とてもとても大きな「追分け地蔵」(右)が鎮座している。

 丸彫りの石地蔵は、座像であるが見上げるような大きさ。 製作年代は不明だが、 八代将軍徳川吉宗の日光社参のとき、 すでに現在地にあったそうだ。

 追分け地蔵から2~3分歩いた先の右奥、「報徳二宮神社」の裏に「二宮尊徳の墓」(左)がある。

 二宮尊徳は居住していた「今市報徳役所」内で70歳の生涯を閉じたが、「墓石は建てるな」と遺言していた。しかし門人や未亡人の意志により墓石の建立が行われている。

 街道に戻り左側に移ると、おっ「こもかぶり」(右)ではないか。「日光誉」の醸造元 「渡邊佐平商店」 は天保13年(1842)創業の老舗。 純米吟醸酒一筋、こだわりがいいねー。

 日光誉の少し先に「今市の水」(左)が竹管の先から流れ出ている。今市の水は「おいしい水」なのだそうだが、うーん、おいしいと言われればおいしいような。 

 その先の車道際に「今市町道路元標」と刻まれた石柱がひっそりと立っている。

 ここで街道の右に移ると、「会津西街道相之道通り」(右)と記された標柱が建てられているが、ここは会津若松までの別名「下野街道」の入り口にあたる。

 その先の国道121号との交差点を渡ると、「緑の広場」入り口に「今市宿 二宮尊徳翁終焉の地」(左)と刻まれた標柱と「明治天皇御小休の蹟」(左)の石碑が建てられている。

 二宮尊徳は文政4年(1821) に下野国に移り住み、その後半生を下野の復興に全精力を注いでいた。

 70歳の生涯を閉じたのは、居住していた「報徳役所」であるが、その「役所跡」(右)を、緑広場から2~3分先の「瀧尾神社」前を左に入った奥で見ることができる。

 街道に戻ると交差点の右側から、再び「日光街道杉並木」(左)が始まる。舗装されていない平坦な歩きやすい道だ。
  

 ここで同行のA氏が「水車を見にいこう」と言うので、さらに右に入ると、なんと「重連の水車」(右)がゆっくりと回っている。この水車、「コットンコットン」とはいわず、ただただ回っているだけ。

 この先でも多数の水車が見られるが、直径10mという巨大な水車もある。

 重連水車の先左側に「朝鮮通信使の客館跡」(左)がある。江戸時代、朝鮮通信使は12回来日しているが、そのうち3回、日光を訪れ宿泊しているそうだ。

 このまましばらく歩くと左の高台に「高龗(たかお)神社」がある。今市には同名の神社が十五社あるそうだ。

 ごく普通の神社であるが、神社名の文字が極めて稀。
文字を拡大すると 神社

 高龗神社から「杉並木道」(左)に戻ると、その先に「瀬川一里塚跡」があるはずだが、どうも見落としてしまったようだ。

 数分歩くと杉並木は途切れ瀬川の集落に入ってゆくが、右側の並木公園内に、天保元年(1830)に建てられたという「旧江連家」(右)が復元されている。

 瀬川の集落を抜けると、街道は再び杉並木となり、いよいよ日光が近づいてきた。

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