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(42) 蔦木宿 国界橋を渡ると、いよいよ信濃路の旅の始りである。
平成19年1月16日
| 信濃路に入ると最初の宿場が蔦木宿で、江戸からは四十二番目となる。本陣一軒、旅籠十五軒、人口五百余人と東海道の宿場に比べれば小さい。今でも宿場の南北入り口に造られた枡形道が残されていたり、街道沿いの家々には当時の屋号を記した木札が下げられているなど、江戸時代の息吹を感じることが出来る旧宿場町である。 |
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坂をちょっと上ると、公民館裏に「日蓮上人 公民館左側にかなり古い石塔群があるが、その中に可愛らしい「夫婦道祖神」(右)発見。 |
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しばらく歩くと、 「応安の古碑」(右) と刻まれた石碑と、10体近くの石仏・石塔が並んでいる。 |
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看板の先をさらに進むと、直進と左に曲がる道に分かれるが、ここが宿場の南入口で、枡形道になっている。右側に由来が記された「枡形道碑」(右)が建てられているので一読。 |
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「連子格子の古民家」(左)が目に飛び込んできたが、その先右側に「本陣大阪屋表門」(右)が復元されている。(保存されていた材料で復元) 主屋は移築されていたが、昭和50年代に解体されてしまったのだそうだ。残念だねー。 |
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与謝野晶子が詠った「石の樋」(右)が歌碑の前に有る。(これも復元) 湧水を利用した水飲み場で、明治39年頃造られ昭和26・7年頃まで使われていたそうだ。 明治天皇が、「石の樋」になる前の湧水をお飲みになられている。ということは、これも御膳水。 |
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国道から左に入った旧街道を、二十三夜塔や供養塔などを眺めながら進むと古木が2本。 説明板によると「川除古木」(右)と呼ばれる木なのだそうだ。信玄堤に植えられたもので、水害から地域を守る為に植えられた木の名残なのだとか。 |
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かれこれ20分ほど歩くと、左側の国道の下に「平岡一里塚」(左)が見える。土盛りがちょっと小さいが、傍らに建てられた石碑には「一里塚」と刻まれ、跡とは刻まれていないので現存なのだろう。 一里塚から遙か彼方の田の中に石碑らしいものが見える。なんだろうか。ちょっと遠いが行ってみるか。 説明板に「明治天皇巡幸御野立所」(右)と記されている。時は明治十三年六月二十三日とある。 |
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机地区の集落を抜け、坂道を下ってくると釜無川支流の立場川に架かる国道20号「瀬沢大橋」(右)の袂に出るが、旧甲州街道は橋を渡って、今度は左の道に入り瀬沢集落を通って行く。 |
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坂を上りきったところが二叉道となっている。ちょっと寄り道を。 右へ曲がり国道20号の地下道を通って向こう側に行くと「瀬沢合戦跡」(右)がある。天保11年(1542)、信濃の諏訪氏ら四氏連合が武田晴信と戦い、手痛い敗戦となった地である。 |
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この先うねうねと曲がった急坂を上って行くのだが、結構キツイ。 とちの木集落まで上ると寛政年間に造られたという「とちの木風除林」(右)を見ることができる。防風林として植えられた赤松は樹齢200年にもなり、見事な並木となっている。 |
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ここまでずーっと上り坂で、合戦跡の見学等も含めかれこれ1時間。なんと「標高950m」(右)と表示されている。うーん、こんなに高いところまで来たんだ。 標高表示の傍に「甲州街道コース」(右)と記された道標が建てられている。こういうのを見ると嬉しいね。 |
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| もう少し先まで歩くとT字路に突き当たって旧甲州街道は無くなってしまう。その先は企業の敷地に変身してしまったのだ。 |
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雪原の中の道が終わると、「原の茶屋」(右)集落に入って行く。明和9年(1772)に茶屋が出来たということだが、その茶屋跡が在るそうだ。が、残念、見逃してしまった。 原の茶屋集落で旧甲州街道に復帰。街道を数分歩くと、右側に「富士見公園」(右)があるのでまたまた寄り道を。 |
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この地の自然景観に感銘した伊藤左千夫は、ここに公園を造ることを構想。村人と共同で造り上げたのがこの公園である。園内には伊藤左千夫歌碑(右)や斎藤茂吉 他多くの句碑・歌碑が建てられている。 「寂志左乃極尓堪弓天地丹寄寸留命乎都久都久止思布 左千夫詠」 |
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御膳水碑の少し先に石塔が並んでおり、その一角に真新しいものであるが信州に多い「夫婦道祖神」(右)が据えられている。この道祖神も、あと100年もすると味わい深〜い石仏になることだろう。 |
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