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甲州街道道中記

 

(34) 鶴瀬宿  えっ!・・・球形の道祖神?

平成18年11月15日

 鶴瀬宿の入り口には関所が設けられており 「入り鉄砲に出女を厳しく監視していた」ということだが、裏山を通って関所抜けする旅人もいたようで「形式だけの関所だった」と記された資料もある。

 最寄りの駅が「甲斐大和駅」であるので、「景徳院」を素通りするわけにはいかない。ここ大和村は武田勝頼終焉の地であり、景徳院には「勝頼・北条夫人(勝頼夫人)・嫡男信勝」の墓がある。

 鶴瀬宿とは反対方向に30分ほど歩くと景徳院に到着。階段上に天正16年(1588)建立という「山門」(左)が威容を誇っている。この寺は、武田勝頼一族の菩提を弔うために、徳川家康の命で建立されたもの。

 山門の右手、甲将殿という建物の裏に「武田勝頼一族の墓」(右)がある。中央が勝頼の墓で、右が北条夫人、左が信勝の墓である。

 すぐ近くの勝頼夫人の歌碑に悲しい時世の歌が刻まれている。
 「黒髪のみだれたる世ぞはてしなき 思いに消ゆる露の玉の緒 」

 景徳院へ行く途中に2基の古戦場跡碑がある。

 田野橋の手前50mほどの所に有るのが「四郎作(しろうつくり)古戦場跡碑」(左)。織田・徳川連合軍と戦うは小宮山内膳ら数名、数十本の矢を受け、立ったまま息絶えたという。

 橋の先に有る碑が「鳥居畑古戦場跡碑」(右)。天目山を目指した勝頼一行は、ここ田野の地で織田軍の先鋒滝川一益軍に捕捉され最後の戦いを行ったが全員討ち死。勝頼、夫人、信勝はここで自刃。

 悲しい歴史を秘めた景徳院を出て鶴瀬宿へ向かうのだが、左手の「笹子峠へ続く山並み」(左)があまりに綺麗だったので1枚。 山と山の間を国道20号が通っているが、道はトンネルに入り山の中へ消えてゆく。

 しばらく歩き国道20号に合流してさらに下り、大和橋を渡ると「笹子峠入り口」(右)となる。ここを左へ曲がると前回歩いた「駒飼宿」を通って笹子峠越となるが、今回は真っ直ぐ進み「鶴瀬宿」へ。

 国道20号を数分歩くと旧甲州街道は左の側道を下って行く。

 立会橋を渡ると、「金岡自画地蔵尊碑」(左)と標柱が建てられている。平安時代の宮廷画家「巨勢金岡(こせのかなおか)」が岩面に描いた地蔵尊は水にぬれるとお姿が現れたのだとか。水害で流されてしまい今は見られない。

 ちょっと先に「鶴瀬関所跡標柱」(右)が建てられている。「鶴瀬の口留番所」といわれ 「物資の流通と入鉄砲と出女」 を厳しく監視していたということだが、「それなりに」監視していたので関所抜けも多かったとか。

 旧甲州街道は関所跡の先で国道を横断するが、ここに「鶴瀬宿標柱」(左)が建てられている。隣の立派な石碑は「鶴瀬地区」と刻まれた石碑で宿場碑とは関係無い。地区ではなく宿だったら味のある石碑だったのになー。

 国道を横断して40〜50mほど旧道を歩き、すぐに国道に合流。

 この先はずっと国道20号を歩いて行くがどこまでも下りが続く。途中に「古跡・鞍懸」(右)と記された標柱が崖の上に立っている。武田軍の猛将 長坂長閑の馬の鞍が桜の木に掛かっていた場所なのだとか。

 さらに国道を下って行くと、「洞門」(左)が見える。ここで右側だった歩道が左側に移ってしまう。旧甲州街道は右側からの山越えだが今は途中で道が消えている。 左に移る前にちょっと寄り道を。

 洞門の右の道を登ってゆくと「聖観音堂」と記された標柱が立っているが、その裏に「芭蕉の句」(右)が記されている。
 「観音の 甍(いらか)見やりつ 花の雲   芭蕉」
この句の甍は浅草寺の観音様の屋根のことだが、観音堂の甍でもいいかな。

 洞門を抜けた先の信号で右に移り、坂を下って国道20号の下をぐるっと廻ると「武田不動尊跡」(左)の標柱がある。横吹まで来た勝頼一行はここで一休み。親切にしてくれた村人に持参の不動尊を託し、武運を祈ったのだそうだ。


 不動尊跡のちょっと先に「旧甲州街道」(右)と記された標柱があるが、横吹(現共和地区)辺りは往時の面影が残るひなびた街道である。

 横吹集落の中程にある火の見櫓の下に変わった道祖神があった。「球形道祖神」(左)とでも言えばよいのだろうか。台座に「道祖神」と刻まれている。

 球形道祖神は、この先で何回も見ることになる。代わりに廿三夜塔を見なくなったが。最後に見たのは下初狩宿だったろうか。

 道祖神の隣に「六地蔵」(右)が鎮座している。写真では大きさが分かりにくいが横幅50センチほど。可愛らしいんだ、この地蔵様。

 この先で再び国道20号に合流して勝沼宿を目指すのだが、下り坂がまだまだ続いている。

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