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甲州街道道中記

 

(2) 高井戸宿 またまた閻魔大王とにらめっこです。

 高井戸宿は、人馬を常備するなどの宿駅業務を上高井戸と下高井戸の2宿が半月交替で受け持つという形態が取られており、高井戸2宿と呼ばれていた。内藤新宿が出来てからは宿泊客が大きく減り厳しい経営が続いた宿場であった。

平成18年8月22日

 笹塚からいよいよ本格的な街道歩きだが、「甲州街道と高速道路の2段重ね」(左)とはまいった。騒音と排気ガスの二重苦である。

 騒音に付き合って20数分歩くと「明大和泉校舎」前に達する。この辺りは江戸時代に「塩硝倉」(鉄砲・弾薬の倉庫)(右)であった場所で明治維新とともにそれらはいち早く官軍に押収されたそうだ。

 押収された弾薬類は反政府軍鎮圧に使われたのだが、もし幕府軍の手に渡っていたら日本の歴史が変わっていたかも。

 明大前から10分ほど歩くと「玉川上水緑地公園」があるので手前を右に曲がると、急に静かな街道に変わる。ここから先は、「託法寺」を始めとして、なんと6軒の寺院が軒を連ねて?いる。(左写真)

 6軒目の「永昌寺」はもともとは江戸・四ッ谷に有ったのだが、明治43年に当所へ移転。注目は山門前の地蔵尊。1677年建立というからざっと300年以上前のもの。庚申塔も古そうだ。

 再び国道に戻り左側に移って、目指すは下高井戸宿。

 10分ほど歩くと「一里塚」(左)というバス停がある。が、それらしいものは無い。でも、名前が残っているだけでも嬉しいね。

 さらに十数分歩くと 「一里塚跡」(左)の説明板がある。「上北沢一里塚」が有った場所だが高速道路の工事で撤去されてしまった。バス停とは大分離れているが、ま、いいか。

 この先の横断歩道を右側に渡ると、百万江戸庶民の喉を潤した「玉川上水跡」(右)が細長い公園となっている。

 バス停一里塚辺りから一里塚説明板の辺りまでが「下高井戸宿」が有った場所で「本陣」も有ったようだが、今はその面影は全く見られない。
甲州街道をさらに進み、環状8号を過ぎると旧甲州街道は国道20号と分かれて左に入って行く。この辺りが「上高井戸宿」であったが、ここも面影は全く無い。

 旧道に入って10分ほど歩くと、左に入る道沿いに「橋場跡と地蔵様」(左)が鎮座している。説明碑があるが判読が難しい。地蔵様は、江戸時代にこの辺りで繁栄した下山一族が建立したものだそうだ。
 

 さらに20分ほど歩くと右側の民家の門前に「新一里塚碑」(右)が立っている。明治3年に作られた一里塚で、内藤新宿を基点に建立されたもの。塚の上に有った道標が右写真の物で幾多の変遷をへてここに収まったのだそうだ。 

 この先の「仙川」(左)を渡ると、旧街道は国道に合流する。 仙川の橋を渡るとき、ふっと下を見ると、まだ8月だというのにもう水鳥が泳いでいる。北国へ帰らなかったのだろうか。

  

 国道に合流したら右側に渡りしばらく歩くと、仙川駅入り口交差点際に「仙川一里塚跡碑」(右)が建てられている。何枚か写真に撮ったが、地元の人は全く無関心に通り過ぎてゆく。毎日見る風景だものなー。

 7〜8分歩くと右に下る道があり「瀧坂旧道」(左)の道標も建てられいる。この道標には「馬宿 川口屋」とも刻まれているが川口屋は昭和初期まで馬宿の営業を行っていたのだとか。

 この坂道は、甲州街道を歩き始めて初めて旧街道らしい雰囲気を味わうことが出来る「瀧坂」(右)。下りはじめてすぐに「薬師如来様」が微笑みかけてくれたりと一層雰囲気を盛り上げてくれる。

 残念ながら数百メートルで国道20号に合流してしまう。

 瀧坂から4〜5分歩き駐車場脇の道を入ると真っ赤に塗られた「金龍寺山門」(左)が見える。真っ赤な(朱色)山門はついぞ見たことが無かったが、「朱は魔よけの色」ということから朱色の山門を持つ寺院が他にも有るそうだ。
 

 山門を入るとここでも「閻魔様」(右)がこちらを睨んでいる。ここの閻魔様は少々お年を召しているようなお顔で、あまり怖さがない。にらめっこをしたら勝ちそうだが。でも、まー、閻魔様には一目置いておこう。
   

 この先右側を歩いていると、庚申様や地蔵菩薩が祀られていたりと、江戸時代を少しだけ感じることが出来る街道を「布田五宿」へ向かってゆく。

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