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甲州街道道中記

 

日本橋界隈   諏訪湖に向かって出発だ!その前にちょっと寄り道を。


 慶長8年(1603)に初めて木橋が架けられた日本橋は、翌年、五街道の起点とされた。 寛永初期(1630)にはすでに
擬宝珠付きの橋となったが、その後も、度々架け替えが行われ、現在の橋は明治44年(1911)に架けられた十九代目の石造りの橋である。


平成18年8月1日

東海道五十三次を歩いたときは、日本橋からすぐに出発したが、今回は寄り道してから出発しようと思う。
まずは日本橋川の上流へ。

 日本橋の上流二つ目の橋が 「一石橋(いちこくはし)(左)であるが、この名前の由来が面白い。橋の両側に後藤家の屋敷が有ったので、「後藤=五斗」から五斗+五斗=一石。 今の若い人には通じないかな。

 一石橋の南詰めに「満(ま)よひ子の志るべ」と刻まれた「しるべ石」(右)が金網のなかに立っている。

 この周辺は大変な繁華街で迷子が多かったようだ。そこで町内の有志で作ったのが「しるべ石」。 左右の窪みに迷子や尋ね人の特徴を記した紙を貼り、告知したのだとか。

 一石橋の上流側に見える橋が「常盤橋」だが、さらにその上流80mほどのところに「旧常盤橋」左)が架かっている。

 浅草橋口門と呼ばれていたが、3代将軍家光から「その名は良くないので変えるように」と言われ命名された名前が「常盤橋」。現在の橋は明治10年に改架された石橋である。

 橋を渡ると石積みの枡形があり、その奥が「常盤橋門跡」(右)となっている。奥州街道に続く正門であったことから、敵の侵入を防ぎ、味方の出撃を容易にするような枡型門が作られていた。

 旧常盤橋門の前が 「日本銀行」(左) で、正面に回るとお馴染みのドーム屋根がチラッと見える。ここは「金座」が有った場所で、ここで金貨の鋳造が行われていたのだが、それらしい説明などは全く無い。

 日本銀行さん、「金座跡」の標識を建ててもらえると嬉しいのですが。

 日本銀行の前が 「貨幣博物館」 である。入り口に守衛が立っており、ちょっと物々しい。が臆せず入ると2階が展示室で「大判小判」(右)はもとより世界中の貨幣が展示されている。珍しく写真OKの資料館であった。

 日本橋界隈は江戸時代創業の老舗が結構多い。そこで今回は旅立つ前にこれらの老舗をちょっと見て行くことにした。
まずは日本銀行の前を通って「三越」へ。延宝元年((1673)創業の越後屋が前身。正面玄関横に説明プレートがはめ込まれている。

 三越の向かい側の店が寛政4年(1792)創業の「刃物の木屋」である。

 木屋の横の道を行くと、元禄12年(1699)創業の 「にんべん」 (左)の店舗が見える。戸板に鰹節と塩干し類を並べて商いをしたのがスタートだそうだ。スローフードの深ーい味わいが売りだとか。

 次ぎの交差点を右に曲がり、数分歩いた十字路向こう側のお店が「はんぺん専門」の「神茂(かんも)(右)。元禄元年(1688)創業だが、いまだに店舗下の工場で自家生産を行っている。こだわりですかな。

 神茂の前の十字路を右に曲がると、「日本橋鮒佐」の前に「芭蕉句碑」(左)がある。 「発句也 松尾桃青 宿の春  桃青」 延宝6年(1678)に俳諧師匠として独立。翌年迎春に詠み上げたのがこの句。
「桃青」は最初に用いた俳号。

ちなみに「日本橋鮒佐」は文久2年(1862)創業の「つくだに店」である。

 中央通りまで歩き左に曲がると「山本海苔店」(右)の暖簾が見える。嘉永2年(1849)創業で、当時から「海苔は山本」の名声を確立。余談になるが、味付け海苔を創案したのが山本海苔店で明治2年だそうだ。

 山本海苔店のすぐそばに日本橋が見えるが、橋を渡らずに一つ下流の「江戸橋」まで歩くことにする。この橋は名前は「江戸橋」だが「昭和通り」の橋で上下8車線という広ーい橋。とても江戸時代を感じることはできない。

 江戸橋を渡り左に曲がって数分歩くと、高速道路の下にこじんまりとした「兜神社}(左)がある。 兜町の由来ともなったこの神社は証券界の守り神。御祭神は商業の守護神「倉稲魂命(うかのみたまのみこ)」である。

倉稲魂命さん、景気が良くなるようにお願いしますね。

 兜神社を後にして日本橋まで戻ると、交差点の角が「日本橋西川」(右)である。近江で永禄9年(1566)に創業した老舗。江戸には元和元年(1615)に進出。「西川」と染め抜かれた暖簾がいいね。

 交差点を渡り真っ直ぐ数十メートル歩くと左側に「和菓子の榮太樓」(左)。安政4年(1857)創業というから明治直前の江戸時代。喫茶店が併設されているが女性客ばかりだ。甘い物ばかり食べると太りますよ。

 西川の前に戻り銀座方向に歩くと左側に「お茶の山本山」(右)。

 「山本山」は元禄3年(1690)創業なので300年以上続く老舗。 ところで「山本」は分かるが後ろの「山」は何を意味するのだろう。同社のホームページを見ても「よく分からない」と記されている。でも語感が良い。

 この他にも元文2年(1737)創業の乾物屋「八木長」、文化7年(1810)創業の「弁松総本店」、元禄年間創業の「黒江屋」・・・などなど、江戸時代から続く老舗がまだまだ沢山ある。これらの老舗を訪ねるだけでも結構面白い。

 「山本山」から少し戻り「日本橋交差点」を左に曲がって甲州街道の旅に出発。 江戸時代の甲州道中は東京駅近くを横断していたようだが、今は道が無いので日本橋交差点で曲がることに。

 江戸城大手門に向かって真っ直ぐ歩き大手町交差点を左に曲がる道が甲州街道であるが、右に曲がって「将門塚」(左)を見に行く。

 東海道掛川宿の先で「十九首塚」を見たが東京にも「将門塚」があった。言われを読むと「天慶の乱で討ち取られた将門の首級は京都に送られ獄門に。ところが三日後に白光を放って飛び去り、この地に落ちた」という。

 大手町交差点まで戻り、右に曲がって「江戸城大手門」(右)を見学。ここは外人の観光客が多い。

 再び大手町交差点に戻り右に曲がって数分歩くと 「和田倉橋」(左)に到着する。擬宝珠の乗った木製の橋はなんとも言えない風情がある。

この先は右側の「馬場先堀」(右)をながめながらのウオーキング。


 馬場先門前を通り日比谷交差点まで来たら堀に沿って右へ曲がるのだが、ここでもちょっと寄り道を。

 交差点の向こう側が日比谷公園であるが、入り口右側に「日比谷見附跡」(左)がある。石垣の一部が残っており見附跡標柱が建てられている。

江戸城日比谷御門の一部がこの「日比谷見附」であるが、日本橋の上流で見た「常磐門」から「日比谷御門」まで江戸城は広い!

 日比谷公園から堀に沿って5〜6分歩くと左側に「赤煉瓦の建物」(右)が目に入る。法務省の「赤レンガ棟」でひときわ目立つ存在だ。この一角は「米沢藩上杉家の江戸屋敷」が在った場所。

 赤レンガ棟の向かい側、堀の向こうに井伊直弼暗殺現場となった「桜田門」が見える。街道から見える門は「桜田門高麗門」でこの門を入ると「桜田門櫓門」(左)が右に控えている。枡形門になっているわけだ。

 桜田門の交差点で右側の三宅坂を登る道が甲州街道である。

 三宅坂を登ってゆくと頂上が半蔵門であるが、その手前辺りが日本橋から一里の距離で「隼町一里塚があった場所」(右)である。残念ながら痕跡は全く見あたらない。マンションの石垣辺りかと勝手に想像。

 都会の真ん中にしては比較的江戸を感じることができた街道歩きであった。丹念に見て歩くとまだまだ見所は多く面白い。この先は江戸城半蔵門を見て内藤新宿へ。

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