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東海道五十三次道中記

 (53)大津宿   擬宝珠を乗せた瀬田の唐橋はかっこいいなー。

 大津宿は宿場町と琵琶湖の港町の二つの機能を持ち、五十三次の中でも最大級の人口を有する宿場であった。また明治に入ると「露国皇太子襲撃事件」、俗に言う「大津事件」で全世界に「大津」が発信された町としても知られている。

平成18年6月11日

 街道をてくてくと歩き「名勝 月輪大池 南1粁」と刻まれた道標を見て、「月輪寺」前の石碑を眺め、さらに歩くと「月輪池」(左)に到着。

 「月輪池」 なかなか風情のある名前の池だが由来を調べると、「この池に月が落ちたので 月輪池 」とも、「月輪殿(九条兼実)に関係があるので 月輪池 」とも言われているが、いずれも定かではない。
 

 月輪池の辺りは「立場」が有った場所で、「東海道立場跡碑」(右)が池際に建てられている。ここは景色が良く、休憩にはもってこいの場所だったろう。今は回りに家が建ち並び、「良い景色」とはいえないが。  

 月輪池の先は大きく左にカーブする。交差点を越えてさらに数分歩くと一里山交差点に到着。

 この交差点左角に「月輪池一里塚跡碑」(左)が据えられている。実は危うく見落とすところだった。建物の陰になっているので、信号が青だったらすっと通り過ぎていただろう。
 

 この後は道なりに20分ほど歩き、さらに右折したり左折したりしながら国道1号に出たら左へ曲がり、赤い欄干の橋を渡る。10分ほど歩くと「2匹の猫の石像」(右)が迎えてくれる。猫ちゃんの下には 「右 瀬田唐橋 左 旧東海道」と刻まれているので素直に左へ。 

 左に入って突き当たりを右へ行くといよいよ「瀬田の唐橋」が近い。1〜2分歩くと橋に到着するが、橋の手前に大きな句碑がある。「山崎茶酔」(左)の句碑」だそうだ。
 「松風の 帆にはとどかず 夕霞   茶酔」

 ついに「瀬田の唐橋」(右)を見ることができた。日本書記にも登場するというこの橋は、日本三名橋の一つと言われるほどの名橋。 「擬宝珠を乗せ、ゆるやかに反った橋が夕日に赤く染まる様は絶景」 と言われている。一方で軍事上の重要な橋でもあったようだ。

 この先は、瀬田の唐橋を渡り、踏切を越えて交差点を右に曲がり、商店街の中を歩いて行く。さらに国道1号の下を通り、再び踏み切りを越えるとJR琵琶湖線の地下道に続くが、ここは手前の交差点を左に曲がる。すると旧東海道は琵琶湖線に遮られてしまうので、石山駅の自由通路を通って向こう側へ行くことになる。

ここから平成18年6月12日

 JR石山駅を出発し、NECの横を通って道なりに何処までも歩いて行くのだが、しばらくすると琵琶湖から遠ざかってしまうので、適当なところで右に入り「琵琶湖」(左)を眺めることに。やっぱり琵琶湖は大きいなー。
 

 街道に戻りしばらく歩くと、突き当たり手前の民家前に「膳所(ぜぜ)城勢多総門跡碑」(右)が見られる。膳所城は、藤堂高虎の縄張りで築城し、瀬田の唐橋守護の役目を担っていた。しかし、琵琶湖に突き出た石垣の崩壊が激しく、廃藩置県で早々に廃城となっている。

 街道を歩いていると、「古民家が現れたり」(左下)、神社があったり、ひなびた旧街道を歩いている。そんな雰囲気の残る旧東海道である。

 街道沿いに膳所城の遺構が残されている。

 「若宮八幡宮」の表門は「膳所城犬走門」(右)を、

 「膳所神社」の表門は「本丸大手門」(右)をそれぞれ移築したものである。

 「石坐(いわい)神社」の先に「膳所城北総門跡碑」(左)が申し訳なさそうに立っている。

 しばらく歩くと、ぜひ見たかった「義仲寺」(右)に到着。  ところが、 ガーン、 それは無いよ!日本橋から歩いてやっとたどり着いたのに「月曜日は休日です」の看板。お寺さんに休日なんて聞いたことないよ。

 ちなみに、義仲寺には「木曽義仲の墓」と隣合わせで「松尾芭蕉の墓」が有るのだが。

疲れがどっと出てしまった。が、歩きを止めるわけにはいかない。気を取り直して歩き始めたが足取りが重いや。

 追記:東海道を歩き、最近三条大橋へ到着した百武さんから 「義仲寺を見学し、芭蕉句碑も写真に撮りましたよ」 と送ってくれましたので、懸案だった「義仲寺の芭蕉句碑」アップしました。

 尼僧が木曽義仲供養のために草庵を結んだが、後に巴御前と分かり「無名庵」と言われるようになったのが義仲寺の起こり。無名庵にしばしば滞在した芭蕉は、義仲の隣への埋葬を遺言したそうだ。
しかし芭蕉の門人は「木曽殿と 背中あわせの 寒さかな  叉玄」とちょっとひねっている。

 「義仲公墓」(左)の向こう側が芭蕉の墓となっている。奥にちょっと見える建物が「翁堂」
義仲寺は句碑がとても多いところであるが、百武さんが芭蕉句碑を探してくれました。
まずは、知らない人がいないという句 「古池や 蛙飛び込む 水の音」(右)。
百武さん提供 百武さん提供


 この句も学生時代に必ず目にする句である。
 「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る    芭蕉翁」 (左)
これは芭蕉生前最後の句で、看病中の呑舟に墨を摺らせて代筆させたもの。


  「行春を あふミ(近江)の人と おしみける    芭蕉桃青」  (右)
  司馬遼太郎が 「近江」 を他の国名に変えたらこの句は成り立たない、と言われたそうだが、確かに  語感が良い。 俳号が芭蕉桃青となっているが、改まった場などではこの署名をしているそうだ。
  百武さん提供   百武さん提供

 義仲寺で落ち込んだ気を取り直してテクテクと20分、なにやら文字の多い石碑が目にとまった。

 「此付近露国皇太子遭難之地」(左)と刻まれている。ロシアのニコライ皇太子が、警備の警官にサーベルで斬りつけられた「大津事件」発生現場で、世界に「大津」を発信した場所でもある。
  

 遭難の地碑から5〜6分歩くと 「札の辻」 に到着する。 京阪京津線が路面電車になっている道路を左に曲がり、緩い坂を上ってゆくと「明治天皇聖蹟碑」が建てられているが、ここが「大津宿本陣跡」(右)である。 

 緩い坂道をさらに上り、一旦分かれた京津線と合流すると、線路の向こう側に「蝉丸神社」(左下)の鳥居が見える。

 ここは下社で、この先の国道1号右側に上社が、さらに峠を越えた先で旧東海道は国道1号と分かれるが、その街道沿い高台の神社が蝉丸神社分社。
 

 鳥居をくぐり、境内に入ると右側に「紀貫之歌碑」(右)が建てられている。
 「逢坂の 関の清水に かげ見えて 今やひくらん 望月の駒   貫之」
歌碑の隣に「関の清水」が柵に囲われているが、今は清水は湧き出ていない。

 蝉丸神社下社の少し先、国道右側に説明入りの「逢坂碑」(左)が建てられている。説明によると「竹内宿禰(すくね)がこの地で、忍熊王とばったり出会ったことに由来する」と。さらに「平安時代には逢坂の関が設けられ、和歌に詠まれる名所であった」とも。

 その「逢坂の関跡碑」(右)が国道1号の峠を越えた先の右側に有る。「相坂」「合坂」と書かれた時代もあったようだが、やはり「逢う」という字が似合う。 そしてこの一首。
「これやこの ゆくもかえるも わかれては しるもしらぬも 逢坂の関  蝉丸」

 旧東海道は「逢坂の関跡碑」横から国道1号と分かれて右に入り、蝉丸神社の下を通って再び国道に合流。ここで国道の左側に渡り5〜6分歩くと「月心寺・走井」(左)と記された行灯が下がったお寺がある。

 広重の「五十三次大津宿」の絵には、茶店の左下に旅人の喉を潤した井戸(走井の井筒)が描かれている。この「井戸」(左)は今も清水がこんこんと湧き出しており、ここ月心寺の門を入ると見ることができる。

 迷信高速(パソコンて意地悪だよな)、名神高速の下を通り、国道1号と別れて交番の前を左に入る道が旧東海道。急に静かな道になる。しばらく歩くと「追分け道標」(左)があり、「みきハ京みち ひだりハふしミみち」 ならば右の道を行けばよいわけだ。

 だらだら坂をくだっていると、「閑栖寺」という寺院の山門横に「車石」(右)が立てられている。説明書きによると「大津・札の辻から京・三条大橋まで、牛馬車の通行を楽にするため、花崗岩に溝を刻んだ切石を並べた」とある。路面電車の線路みたいなものか。大変な作業だったろう。

 だらだら坂を下り、国道1号を歩道橋で右に渡るのだが、下を見るとセンターライン側の車線に「三条」の文字が。ついに三条大橋が射程内に入ってきたようだ。

 歩道橋で国道の右側に渡り数十メートル歩いたら、再び旧東海道に入って行く。数分歩くと「三井寺観音道道標」(右)と常夜灯が立っている。間に真っ赤な箱(消火器具格納庫)が置かれているのがちょっとなー。写真写りが悪いんだよ。この先で「京都市」の表示発見。

 Hさん、ありがとうございます。東海道を歩いて最初に芭蕉句碑に出会ってから欠かさず写真に撮ってきました。特に義仲寺の芭蕉句碑は思い入れが強かっただけに残念な思いをしておりました。Hさんからの提供で東海道沿いの芭蕉句碑がそろいほっとしたところです。

 東海道をテクテク歩いて、ついに五十三番目の宿場も通り過ぎてしまった。京都に入り、三条大橋を渡ればこの旅も終わってしまうのかと思うと、ちょっとどころか、かなり寂しい。そうは言っても三条大橋を渡らなければ。

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