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東海道五十三次道中記

 (51)石部宿

日本地図の中心線「東経136度00分00秒」を通過
        「日本の中心」ではない。

 「京立ち石部泊まり」と言われた石部宿は京都から9里約36km、江戸に下る旅の最初に泊まる宿場であった。宿場内には本陣2軒、旅籠が32軒有ったが、当時の面影はほとんど残っていない。

平成18年5月25日

 のっけから食べる話で恐縮だが、旧東海道を歩いていると食事ができる場所が少ないので苦労する。

 「これより石部宿」(左)の看板の少し先、右の彼方に喫茶店を発見。食べられればなんでもOKだ。

 ちょっと寄り道したい神社が「吉姫神社」(右)。

 ここで見たいのは「狛犬」(右)。この狛犬は、南北朝時代の作ということだ。なんと木製。ざっと670年前の木製の狛犬。うーん、すごい。 

 吉姫神社から20分ほどの交差点手前左側に「高札場跡」(左)があり、休憩所となっている。交差点の向こう側には「問屋場跡」の表示。さらに数分歩くと「いしべ宿驛」の看板が。ここは囲炉裏の有る休憩所とでもいおうか。
 

 いしべ宿驛のちょっと先に「小島本陣跡」(右)と刻まれた石碑が建てられている。後ろには「明治天皇聖蹟跡碑」が。この本陣は間口45間、建坪775坪というから、とてつもない大きさ。昭和43年に取り壊されてしまったそうだ。あーもたいない。

 小島本陣跡から数分先、路地奥の「真明寺」「芭蕉句碑」(左)がある。
 「つつじいけて その陰に 干鱈さく女   芭蕉」
「つつじをいけていると、傍らに鱈の干物が干してあり、農家の使用人の女がいる」
という情景だそうだが。

 街道に戻り西に向かうと「田楽茶屋」(右)の休憩所が見える。「東海道五十三次石部宿」に描かれた立場の田楽茶屋を模して建てられている。パンフレットなども入手できるので、休憩がてらの情報収集に最適な場所である。 

 田楽茶屋を出て左に歩き(街道を来た場合は右に曲がる)、突き当たりを左に曲がると115番目となる「石部一里塚」と記された木板があり、その先の交差点向こう側の電柱には「見付」とだけ記された木板も取り付けてある。

 5〜6分歩くと「西縄手跡」(右)にたどりつく。

 かつては松並木があり、道中をリラックスして歩いてきた大名行列が、ここで隊列を整えて宿場に入っていった場所だそうだ。ここには東屋があり休憩できるようになっている。石部宿はやたらと休憩施設が多いが嬉しいことだ。

ここから平成18年6月11日

 西縄手から30分ほど歩くと「新善光寺道 是より一町余」と刻まれた道標が有る。

 つられて右に曲がり「新善光寺」(左)に立ち寄ってみた。平家一族の末裔・小松宗定なる人物が信濃善光寺を四十八度参詣。夢のお告げに現れた如来様を招来されたのだとか。

 街道に戻り、10分ほど歩くと「六地蔵跡」、さらに数分歩くと「旧和中散本舗」(右)の建物がある。

 家康の腹痛をたちまち治してしまったということで一躍有名になった「和中散」の製造・販売を行っていた大角家の建物で、間宿の本陣としても使われていたという由緒ある建物である。

 2〜3分歩くと小さな公園があり、その一角に「東海道一里塚」(左)と刻まれた石碑が建てられている。ここは116番目の「六地蔵一里塚跡」で、そばに小さな小さな塚が造られており、塚の上には榎ならぬ桜が植えられている。

 このさき、「東海道」と刻まれた石標などを見ながら20分ほど歩くと、「東経136度・子午線」(右)と刻まれた石柱を目にした。「東経136度に何か意味があるの」と言われると返答に困るが、日本地図の中心線だよ。

 さらに少し歩くと「東海道すずめ茶屋跡地」(左)と刻まれた石碑に出会う。「すずめ茶屋」とはなかなか粋な名前の茶屋だが、何故「すずめ」なのかは分からない。豆腐田楽が人気だったようですよ。

 茶屋跡の先の交差点を渡ると、左側が「上鈎(まがり)池」の堤防である。

 堤防の中程に「鈎の陣碑」(右)と多数の歌碑がある。六角氏討伐のため近江に出陣した将軍足利義尚は、鈎の安養寺に陣を構えたが25歳で没し、六角氏あやうく命拾いしたという。

 「鈎の陣碑」を後にしてテクテクト歩くこと20分。ほどなくT字路に突き当たる。

 正面がまたまた堤防になっているが、堤防の下に「東海道 やせうま坂」(左)と刻まれた道標が。 やせうま?変な名前の坂だが説明が無い。資料を調べても分からない。うーん、気になる坂だ。
 

 道標の前を右に曲がり、数分歩くと左にカーブする。曲がって3〜4分歩くと民家前に 「東海道一里塚」(右)と刻まれた一里塚跡碑が建てられているが、ここは 「目川一里塚」 があった場所である。

 追記:「東海道 やせうま坂」 気になる坂だったが、云われが分かりました。
     「今は緩やかな坂だが、その昔は馬も痩せるほどの急坂だったので、やせ馬坂なのだとか」
 旧東海道を、日本橋から京都三条大橋までご夫妻で歩いたY様が、地元の方から由来を聞きメールしてくれました。ありがとうございます。

 またまたテクテク、というより黙々と十数分歩くと「田楽茶屋元伊勢屋跡」(左下)の説明板。その先にも立場茶屋跡の説明板が並ぶ。

「元伊勢屋」は広重の「東海道五十三次石部宿」に描かれた茶屋で、菜飯と田楽が名物だったそうだ。

 立場の先で道なりに右に曲がり、しばらく歩くと「老牛馬養生所跡碑」(右)と説明板が民家の生け垣の中に建てられている。

 老牛馬であっても、すこやかな余生を送ってもらおうと、岸岡長右衛門なる人物が養生所を設立したのだという。なんと心優しいお方だろうか。

 このすぐ先で栗東市から草津市に入る。「どうせ通らにゃならねえ草津の追分けよ」と森ノ石松がつぶやいた草津の追分け、そして草津宿が近い。草津宿には日本最大級の本陣が現存しているという。楽しみだ。

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