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東海道五十三次道中記

  (46)亀山宿 布気(ふけ)神社で見た「焚き火」 たなびく煙がなんとも良い雰囲気なんだなー。

 伊勢亀山は織田信長に仕えた関盛信が領していた土地であるが、盛信以降は領主の交代が激しく行われていた。石川総慶(ふさよし)が入ってやっと落ち着き、以降は11代続き明治を迎えている。 亀山宿は城下町であったが、宿場は幕府直轄という変則的な宿場であったため、これを嫌う大名は泊まりを避けており、城下町でありながら宿場の規模は小さく、本陣1軒、脇本陣1軒であった。

平成18年5月11日

 神戸領の女人堤防碑から十数分歩くと「中富田 川俣神社」に行き着く。

 この神社の後ろ側に「従是西亀山領」と刻まれた「傍示石」(左)が建てられている。ところで、なぜ神社の後ろ側かというと、この神社は街道に背を向けているのである。
 

 またここは「一里塚」が有った場所で、やはり神社の後ろ側に「中富田一里塚跡碑」(右)が建てられている。近くには「高札場」「御馳走場」などもあったようだが、今は案内板でその存在を知るのみだ。

 さらに十数分歩くと、「西富田 川俣神社」がはやり街道に背を向けている。どうも鈴鹿川に向かって「氾濫するなよ」と睨みを効かせているのではなかろうかと。

 この神社には何本か石碑・石柱が立っているが、「経度・緯度が刻まれた石柱」(左)があった。 東経136度30分25秒/北緯34度53分14秒。 何故ここに。 いろいろ調べたが分からない。
 

 「無上冷水井跡」(右)と刻まれた石碑もある。織田信長に攻められ降伏した神戸氏の養子となった織田信孝が愛飲した、という井戸であるが現在は石碑が立つのみである。

 西富田川俣神社を出ると、すぐに鈴鹿川になる。その昔は街道の突き当たりに橋が有ったが今は無いので、下流の「和泉橋」を渡って行く。橋を渡ってから旧東海道に戻るのだが、この先がちょっと複雑。10分ほど歩き「地福寺」の前を左に曲がり、2車線の道路を横断。関西本線の踏切を渡り、自動車道路に出たら左に曲がり、井田川駅前を通って道なりに歩き、国道1号を歩道橋で越える。

 歩道橋を降りたら50mほど先で左に曲がる道が旧東海道。国道1号の高架下を通ると、ほどなく民家の前に「谷口法悦題目塔」(左)がある。約300年前、法華教信者だった谷口法悦が、東海・関西を中心に題目塔を寄進。確認されただけでも百余基もあるとか。

 さらに数分、元禄3年(1690)建造という「和田の道標」(右)がある。刻まれている文字は「従是 神戸 白子 若松道」。東海道からの分かれ道で、地図を見ると、伊勢湾の四日市市と津市の間に白子町、若松町の地名が見える。

 このまま進むと旧国道1号に合流するが、その手前を右に折れて行く。

 和泉式部が参籠したという「石上寺」前の坂道を上りきると 「和田一里塚」(左)がある。 復元したものであるが、このような旧跡を復元して残そうという心意気が嬉しいではないか。

 一里塚を過ぎ、国道306号を横断。カメヤマローソクの工場を左に見て進むと、いよいよ亀山の町並みだ。

 しばらく歩くと「従是西亀山宿」の木札があり、さらに進むとT字路に突き当たるが、ここが「江戸口門跡」(右)で、写真中央の道が旧東海道である。 

 T字路を右に曲がると宿場街だが、今は商店街。左側の歩道を歩くと「椿屋脇本陣跡」「樋口本陣跡」(左)の立て札が相次いで現れる。
  

 商店街の先の交差点を左に曲がる道が旧東海道。交差点の向こう側には「高札場跡」の立て札がある。交差点の右側に交番があるが、その裏の標柱には「大手門跡」(右)と記されている。

 交差点を左に曲がると、桑名宿と同様に旧東海道はベージュのカラー舗装が施されている。

 何軒かの古民家を見ながら歩いて行くと、左から右へ上ってくる道と交差するが、この交差点向こう側に「亀山宿碑」(左)が据えられている。 ここでちょっと寄り道を。
  

 右手山の上に「亀山城多門櫓」(右)が見える。寛永9年(1632)頃(天保年間という資料もある)の築造ということなので、なんと370年以上前の建物。法隆寺と競べれば、大人と子供ほどの年代差であるが、それでもすごく古い。

 亀山城址へ行く途中の右側道路下に「石井兄弟敵討の碑」(左)がある。

 石井源蔵・半蔵の兄弟が、父の敵、赤堀水之助を討ち取った場所がここ。この仇討ちは 「元禄の曾我兄弟」 と称され、歌舞伎・講談・浮世絵などに取り上げられ、日本中で称賛されたそうだ。
  

 坂を上り切ると、右側に「亀山城址碑」(右)が建てられている。亀山城にも天守閣が有ったのだが、堀尾某なる人物が「丹波亀山城」と間違えて、天守閣を取り壊してしまったのだとか。いい加減な人物ですな堀尾某は。

ここから平成18年5月21日

 亀山宿碑が設置されている場所の左側の階段を登ると休憩所で、傍に「西町問屋場跡」(左)の説明版が建てられている。亀山宿には東町と西町の2カ所に問屋場が有ったこと、などが記されている。

 問屋場前のカラー舗装道路を進み、「右郡役所/左東海道」と刻まれた道標を右に曲がると「侍屋敷・加藤家長屋門」(右)に行かれる。亀山藩の家老、加藤家の侍屋敷長屋門で、江戸時代中期以降の建物なのだとか。

 街道に戻り先へ進むと、カラー舗装が無くなるが、ここを左折すると「亀山城京口門跡」に行かれる。左の絵は「五十三次亀山宿雪晴れの図」 であるが、京口門前の坂を下る途中で、雪こそ無いが、まさにこのような景色を見ることが出来る。 

 坂を下り、「照光寺」に入ると、石井兄弟に討ち取られた「赤堀水之助碑」がある。討ち取られた側なのになんと立派な碑だこと。  まもなく「江戸時代の町並み」(右)かと思えるような風景が見られる。

 江戸時代の町並みからしばらく歩くと、彼方に大木が見えるが、これは現存の「野村一里塚」(左)。近づくと巨木の根が一里塚を鷲づかみ、凄い! この樹は榎ではなくムクの木で、樹齢400年。見れば見るほど凄い。
 

 一里塚からしばらく歩き、「大庄屋 屋敷跡標柱」を過ぎたら右の道に入って行く。ちょっと歩くと「布気神社」が有るので寄ってみた。 懐かしい!「焚き火」(右)をしているではないか。たなびく煙がなんとも良い雰囲気なんだなー。

 街道に戻り、少し先の坂道を下って、関西本線の陸橋を渡り、鈴鹿川にそってしばらく歩くと「大岡寺畷跡」(左)の説明パネルと標柱がある。18丁(約3.5km)に渡って松並木が続いていたそうだ。
 芭蕉さんも一句
 「から風 大岡寺畷 吹きとおし つれも力も 皆座頭なり」

 大岡寺畷先の東名阪自動車道橋脚に「東海道五十三次 庄野・亀山・関・坂下の四宿の絵パネル(右)がはめ込まれている。これだけ大きいと存在感があり、見応えも十分。

 この先は鈴鹿川の堤防上を歩き、《これがのどかでいいんだ》、関西本線の踏切を渡り、国道1号を歩道橋で越え、左に曲がると、彼方に「関宿」と記された大きな看板が見える。 関宿はいままでの宿場町とはかなり違うらしい。江戸時代にタイムスリップ出来るのだとか。

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