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東海道五十三次道中記

(45) 庄野宿   宿場の雰囲気を楽しむ間もなく通り過ぎました。   街道地図

 庄野宿は幕府の直轄地であったが、石薬師宿と同様に休息地的な存在で、旅籠も15軒と小さな宿場であった。いまでも格子戸の古民家が残り、昔の面影を感じることができる。街道を歩いていると、静かなというよりひっそりした町並みが続く旧宿場町である。

平成18年5月11日

 江戸時代をイメージできる田んぼの中の一本道から大型トラックが行き交う国道1号に出て、てくてくと20分。

 ほどなく「庄野宿資料館の看板」(左)が見えるので、この看板手前右側の緩い坂道を下って行くと、45番目の宿場・庄野宿だ。

 坂を下って100mほど歩いた先の交差点向こう側に「東海道庄野宿」(右)と刻まれた石柱と「庄野宿の説明板」(右)が建てられている。

 説明によると、庄野宿は、草分け(早くからこの地に居住)36戸、宿立て(宿駅開設後に居住)70戸という小さな宿場であった。

 庄野宿碑前を左に曲がると、さっそく格子戸の古民家が現れ旧街道の雰囲気が。

 数分歩いた左側の建物が「宿場資料館」(左)。旧小林家の建物を修復したもので、館内には庄野宿本陣・脇本陣関係の資料や民具が展示されている。

 資料館の反対側斜め先の民家に「問屋場跡説明板」(右)が取り付けられているが、その説明書きに「問屋二人、年寄り二人、馬差し各4〜5人が交代で・・・・」とある。

 ちなみに、平塚宿の問屋場では宿役人が100人以上勤務していたということであるからかなり規模が小さい。  

 問屋場跡のすぐ先、やはり右側に「庄野宿本陣跡碑」(左)が建てられている。 庄野宿は本陣1軒,脇本陣1軒という小さな宿場であった。
 

 その先が「高札場跡」(右)、さらにその先が「助郷会所跡」(右)。庄野宿のように小さな宿場は助郷が頻繁に行われ、これによって宿場が維持されていたようだ。

 しばらく歩いた先の右奥にある川俣神社境内に「スダジイの大木」(左)がある。温暖な地に自生するそうだが、ここのスダジイは樹齢300年、樹高12メートル、幹回り5.8メートル。見事である。

 静かな町並みの終わりは宿場西入口に設置された「庄野宿碑」(右)。あっという間に宿場の外へ出て国道1号に合流。

 というより、国道を斜めに横切っているのだが斜めの横断歩道は無いので、その先の立体交差の地下道を通って再び旧街道へ。

 しばらく歩くと、右側に常夜灯・山神碑、左側には「領界傍示杭」(左)があり「従是東神戸領」と刻まれている。神戸氏は鈴鹿郡の24郷を領していたが、織田信長に降伏。だが結局は絶家。

 傍示杭の隣に「女人堤防の碑」(右)と言われる石碑がある。ここは鈴鹿川の氾濫に悩まされた地。

 堤防の修築を申し出たが許されず、女性達が禁を犯し処刑覚悟で堤防を補強。ついに打ち首に。    「おーい、早馬が来るゾー」 間一髪、赦免の早馬で救われたという。

 あっという間に通り過ぎてしまった庄野宿であった。この先十数分歩くと川俣神社があるが、そこから先は六万石大名石川氏の亀山領となり、向かうは亀山宿。

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