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東海道五十三次道中記
(41) 宮 宿   ついに到着『宮七里の渡し場』       街道地図  
 「熱田宿」ともいわれた「宮宿」は熱田神宮の門前町であるとともに、桑名宿への「海上七里の渡し」の玄関口としても賑わいを見せ、本陣2、脇本陣1、旅籠は248軒と規模の大きな宿場であった。天保14年(1843)には宿内人口が1万人を超えていたと云われている。
     
 平成18年4月6日
 山崎橋を渡ってすぐに左へ曲がり、道なりに10分ほど歩くと広ーい道路やら、高速道路やら、大きな歩道橋やらが現れる。さてどこから向こうへ行こうか迷ったが、右側の歩道橋階段を
上がって広ーい道を越えたのが正解だった。

 歩道橋を降りた所に「八丁畷公園」(左)があり、その一角に「旧松田橋」(右)が復元されている。 由来を記した説明板を読んで周辺を眺めると、織田信長の時代が想像できる。 

 その昔、織田信長が熱田神宮から笠寺まで整備した道が田と田の間を通っていたことから「八丁畷」と言われたそうだ。また保存されていた親柱を使って復元された橋が「旧松田橋」である。


 この先は国道1号を歩き、次の歩道橋で左側に渡るといよいよ「宮宿」が近い。東海道線の踏切を渡って左側の道に入り、熱田橋 を渡り、名鉄の踏切を越えると「宮宿の案内板」(左)が立っている。
コメント:名鉄は高架化され、今は踏切りは無い。

 案内板の少し先にあったのは「姥堂跡」(右)。本尊姥像は「日本武尊の母像」とも「宮簀媛命(みやすひめのみこと)像」とも言われたが戦災で御堂とともに焼失。

地元では「おんばこさん」と呼ばれ親しまれてきたが平成5年に復元されたものである。



 姥堂の左側には復元された「旧裁断橋」「裁断橋址碑」(左)がある。 小田原城攻めに出陣した堀尾金助の母親の美談を秘めたこの橋も大正時代に撤去され擬宝珠だけが残されていたがそれもついに撤去。 が再びここに擬宝珠とともに復元・展示。 

  惚れて通えば千里も一里、逢えずに帰ればまた千里 ご存じ「都々逸」の一作。 都々逸は熱田で生まれた神戸節(ごうどぶし)が起源とも言われており、姥堂の右側の奥には「都々逸発祥の地碑」(右)が建てられている。

 伝馬町通りを真っ直ぐ進むと丁字路に突き当たるが、その左側の民家脇に建てられている石柱は「三叉の道標」(左下)。

 この場所は東海道と美濃路/佐屋街道の分岐点に当たり重要な三叉路であった。道標は寛政2年(1790)に設置されたものだが、設置位置は当時のままだそうだ。コメント:道標横の家が解体されているので三叉の道標は無いかもしれない。 

道標の対面に「ほうろく地蔵」(右)の堂がある。

 焙烙とどんな関係にあるのかと思ったらつまらない関係だった。説明板に縷々書かれているが、つまりは「焙烙売りが荷物の片方に重しとして地蔵をここまで運んできたが捨てて帰った」ので「ほうろく地蔵」。


 ほうろく地蔵の前を左に曲がり、国道1号の歩道橋を渡り階段を降りたら、ひつまぶしが名物の蓬莱軒横を右に曲がると宮の渡し公園が彼方に見える。


 ついに到着「七里の渡し跡」(左)。「ここからは舟の中で休憩だ」とは昔の人は思わなかった。舟に弱い人、強い波浪の危険を避ける人など、舟に乗らず、さらに陸路を歩く人も多かったようだ。

 七里の渡し跡の前に古民家が2軒、「熱田荘」(右)と「丹羽家住宅」である。特に丹羽家は脇本陣格の旅籠屋という。  




 七里の渡し跡には「七里の渡し碑」(左)と「熱田湊常夜灯」(左)が復元されている。
 
 常夜灯の隣には「時の鐘」(右)の鐘楼がある。復元されたものであるが今でも1日3回、時を知らせているそうだ。
 江戸時代当時の鐘は熱田神宮近くの福蔵寺に今も置かれている。


  東海道はここから「海上七里の渡し」で桑名宿へ向ったのであるが、舟に乗らず佐屋街道を歩き「佐屋三里の渡し」で桑名宿へ向かうというコースもあった。
 せっかくここまで歩いてきたので熱田神宮にお参りして、さらに「佐屋三里の渡し」まで歩くことに。

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