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東海道五十三次道中記   

脇往還佐屋街道  ひんやりした冷気と竹箒の音。 なんとも清々しい。    街道地図

 宮宿から桑名宿へは「海上七里の渡し」が東海道五十三次のルートである。 しかし脇往還として佐屋街道を通り「佐屋三里の渡し」で桑名へ渡るルートもあった。このルートは三代将軍徳川家光のために整備された街道だと云われている。家光が京へ上るとき、大変な船酔いになってしまったため、これを聞いた尾張藩主徳川義直が陸路の多い佐屋街道を整備。街道には一里塚はもちろん、4カ所の宿場があり、本陣・問屋場も整備されたので多くの大名もこのルートを利用している。

平成18年4月7日

 「七里の渡し跡」から旧東海道に戻り「三叉の道標」前まで来たら右へ曲がると旧東海道、真っ直ぐ行く道が「佐屋街道」である。今は国道一号に阻まれて真っ直ぐには行かれないので警察署前の歩道橋を渡る。
コメント:三叉の道標は撤去されているので、ほうろく地蔵前を真っ直ぐ進む。

 歩道橋から佐屋街道に戻ると、熱田神宮の鳥居があり参道に続く。

 「まずは熱田神宮にお参り」と参道に入ると、ヒンヤリした冷気と「さーっさーっ」という玉砂利を清める竹箒の音。なんとも清々しい。

 旅の安全を祈願して佐屋街道の旅へ出発。熱田神宮脇の国道19号、通称伏見通りを北に向かって歩くことに。




 国道の左側を進むと、ほどなく熱田神宮公園の一角に「断夫山古墳」(左)がある。東海地方最大という前方後円墳で、全長は151mというからかなり大きい。しかし我には小高い丘にしか見えない。

 さらに進むと、県道と交差する手前に「熱田神宮第一神門址碑」(右)が車道に向かって立っている。以前も見たことがあるが、何故に正面が車道側になっているのだろうか。

 ここまで来る間に「源頼朝出生地碑」を見落としているようだ。



 第一神門址碑の手前の路地を入った突き当たりの妙安寺に「芭蕉句碑」(左)がある。
 「この海に 草履捨てん 笠時雨   芭蕉翁」
野ざらし紀行の終わり近くで、熱田の門人「桐葉」のもてなしを受けた時の作。

 妙案寺を出ると「猫」(右)が。猫好きが黙って通り過ぎるわけがない。この猫とっても恥ずかしがりやなんだ。声を掛けると目を開けてくれるがシャッターを押そうとすると目をつぶってしまう。でも可愛いなー。




 街道に戻り交差点を横断して次の交差点まで来ると「佐屋路の道標」(左)が設置されている。文政4年(1821)に設置された道標で、東西南北各方向の行き先が刻まれている。

 「南左さや海道 津しま道」とあるので左へ曲っていくことに。

 しばらく歩き新幹線のガードを過ぎた先の唯然寺山門脇「五女子一里塚碑」(右)が建てられている。碑には佐屋街道ならぬ「津島街道一里塚」と刻まれており、ちょっと混乱を招く。



 街道を左側に移りしばらく歩くと「佐屋街道碑」(左)と説明板。佐屋街道は三代将軍家光のために整備されたということは冒頭に説明したが、後に道中奉行が管理する官道に格上げされている。多くの参勤交代の大名や明治天皇も通行したという重要な街道でもあった。

 この先は変化の少ない道を歩き「岩塚宿場跡」(右)までたどりついた。道路標示に宿場跡を追加した担当者の気づかいが嬉しい。

 ごく普通の町並みで、宿場跡という雰囲気は感じられない。



 宿場跡表示の先を右に曲がり高速道路の下を通ると、尾張3大奇祭の一つ「きねこさ祭り」で有名な「七所神社」(左)の鳥居の前に出る。
  

 この神社の境内裏手に「日本武尊腰掛け岩」(右)なるものがあるが、説明板によると「日本武尊が東夷征伐の後、庄内川の渡船を待つ間、しばらく腰掛け給へる岩なり」 とのことだ。
  



 七所神社を出て万場大橋を渡り、左に曲がると土手の下に「万場宿跡」(左)が見える。ここは渡し場周辺にあった秋葉神社・秋葉神社常夜灯・万場渡し常夜灯、明治になって架けられた橋の欄干石などをまとめた場所のようだ。

 万場宿跡を見た後、かれこれ1時間ほど歩き七宝町に。

 交差点際の竹垣で囲われた一角の中に「七宝焼き原産地碑」(右)が建てられている。碑の最上部に「shippoyaki Toshima」と刻まれているのがユニーク。




 片側田んぼの中の1本道を20分ほど歩き弓掛橋を渡って50m程先の路地を左に入ると、民家の庭先に「源義経弓架け松跡碑」(左)と二代目松がある。民家の庭の中に有るのでちょっと見つけにくい。
 

 下田橋からさらに20分、神守(かもり)町交差点の向こう側に見えるのは「神守の一里塚」(右)。この一里塚は日本橋から93里目。



 一里塚から数分歩き右に曲がってしばらくすると格子戸の家が有り、なんとなく昔の街道を歩くような雰囲気になってくる。


 突き当たりの丁字路向こう側に「神守の宿場跡標柱」(左)が立っているが、この辺りが宿場の中心だったようだ。だが、今は静かなたたずまいの町だ。
  

 居合わせたおばあさんの話によると、「昔、ここに本陣が有ったですよ。ずーと向こうまで大きかったですよ。役場が有って、消防署が有って、その前には警察署も有ったですよ。料理屋も有ってあちこちから人が来て賑やかだったですよ。今は静かになってしまった」



 再び県道に合流して日光川を渡るのだが、工事中のため渡れない。仕方ないバスで迂回するか。(足が痛いので実はホットした。)


 バスを「津島市役所前」で降り、左の道に入りすぐに右へ曲がると常夜灯が見えるが、ここが「埋田の追分け」(左)である。佐屋街道と津島神社方面への分かれ道になる。
 

 常夜灯の手前に「追分け道標」(右)が立っており 「左さやみち 右つしま天王みち」と刻まれている。



 常夜灯の手前に「津島神社一の鳥居跡碑」(左)が建てられており、その先に鳥居の左右の「根本石」(右)が立っている。 かなり大きな鳥居ではなかったかと想像出来るが、昭和34年の伊勢湾台風で流され根本石だけが残されたのだそうだ。
 

 さすがに常夜灯は重いのでびくともしなかったのだろう。しっかりと残されている。
 



 このあと、長い長い道中が続く。愛宕神社の脇を通り、住宅街の中を通り、田んぼの中の道を歩き、名鉄の踏切を越え、やっと内佐屋交差点にたどりつく。 

 交差点を左に曲がる道が佐屋街道であるが、ここはまた巡見街道でもあった。左に曲がってほどなくすると、左側に「佐屋海道址碑」(左)が建てられている。

 ここでは「海道」が使われているが、かつては重要な道は「海道」として表記していた。たとえば「東海道」。 しかし陸の道であることから東海道以外は、道中が使われ、明治に入ると街道に変わっている。
たとえば、日光海道⇒日光道中⇒日光街道 と。
  



 須衣交差点を右に曲がるといよいよ「佐屋宿」。天保14年には本陣・脇本陣各一軒ずつあったというから「小さな小さな宿場」ではない。


 右に曲がって数分歩くと路地入口に「くいな塚道標」(左)が。

 路地を入ると住宅街の中にくいな塚碑が立ち、その奥に「芭蕉句碑(くいな塚)」(右)が建てられている。
 

 「水鶏(くいな)啼くと 人の云えばや 佐屋泊   芭蕉翁」
「水鶏が啼くのでその声を聞いていったらどうですか」と勧められ思わず佐屋に泊まってしまった芭蕉さんでした。



 街道に戻り、さらに数分歩くと左側の柵の中に 「左さや舟場道」(左)と刻まれた石碑がある。 
 

 道路を挟んだ反対側の整備された植え込みは 「佐屋代官所跡」(右)で石碑が建てられている。代官所説明書きによると、代官制度が出来たときの最初の代官所がここ「佐屋代官所」であったそうだ。
  



 ついに到着しました。 「佐屋三里の渡し」  代官所跡の目の前、T字路交差点の向こう側の公園の中に「佐屋三里之渡跡碑」(左)が建てられている。 が、今は川は無い。
 

 佐屋の湊から佐屋川を下って木曽川に入り、さらに長島輪中を抜けて揖斐川を横切り、桑名まで3里の船旅であった。残念ながら佐屋川は土砂の堆積が進み、ついに明治に入ると渡しが廃止となる。 一方、江戸末期から木曽川に直接漕ぎ出す「ふたつやの渡し」が栄えるようになり世代交代が行われてゆく。
 



 ここまで来たら「ふたつやの渡し」も見なければ気が収まらない。 ということであれば「ふたつやの渡し」を見た後、桑名まで陸路を歩くことに躊躇しない。須衣交差点まで戻り「巡見街道」を歩こう。

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