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東海道五十三次道中記
(40) 鳴海宿  帰宅後、資料を調べまくった鳴海宿でした   街道地図 
 間の宿である「有松」とは近い距離にある。有松絞りが有名になると鳴海宿でも生産・販売が行われるようになり、有松とともに絞り染めで繁盛した宿場であった。 しかし、今の鳴海は格子戸の家が所々に残る程度で当時の面影は少なくなってしまった。

 平成18年4月6日


 有松宿を出て30分ほど歩くと交差点の向こう側に
「常夜灯」(左)が見えるが、ここが
鳴海宿の東入口となる。


 常夜灯から5〜6分、植え込みの中に
「飛脚と編笠の女」(左)が刻まれた石碑が。何故飛脚と編笠女なのか、説明が無い。 でも編笠女の仕草 色っぽいなー。



 
「中島城址碑」(右)はちょっと見つけにくい。飛脚碑の先の中島橋手前を左に曲がり、次の橋の手前を左に曲がると民家の庭の中にある。 織田信長が今川義元の侵攻に備えて築いた砦の跡だそうだ。


 本町交差点を渡り、右に曲がった先の誓願寺境内には芭蕉堂「芭蕉供養塔」(左)がある。 芭蕉が没した(元禄7年10月死去)翌月に建てられたもので、芭蕉供養塔としては日本最古のもの。



 誓願寺前の坂道を上ると、右側に
「天神社」(左)があるが、ここは桶狭間の戦いで今川方の岡部元信が立てこもった鳴海城址でもある。入り口階段脇に「倭(日本)武尊御歌碑」(右)が建てられいる。

 奈留美良乎 美也礼皮止保志 比多加知尓 己乃由不志保尓 和多良牟加毛 
  なるみらを     みやればとほし     ひたかちに     このゆふしほに 
    わたらへむかも
 
 (鳴海らを  見やれば遠し  火高地に  この夕潮に  渡らへむかも )
 鳴海潟の岸辺で詠まれたのだそうだ。


 境内には3基もの「芭蕉句碑」(下)が。
  よき家や 雀喜ぶ 背戸の粟 京までは まだ中空や 雪の雲 杜若(かきつばた) われに発句の おもいあり


 街道に戻り次のT字路を右に曲がってしばらく歩くと
「鳴海宿西入口の常夜灯」(左)があり、ここまでが鳴海宿内ということになる。


 常夜灯から数分分歩くと右側に
「鉾(ほこ)の木貝塚」(右)の斜面広場がある。縄文時代前期の貝塚で、貝殻とともに縄文土器や深鉢型土器なども出土しているそうだ。



 貝塚の少し先の右側路地を入って行くと千句塚公園に行き着くが、公園入り口の壁面に芭蕉の句が記されている。 
 「星崎の 闇を見よとや 啼く千鳥   芭蕉」
 また、公園の頂上近くに芭蕉の筆による
「千鳥塚」(左)があるが、これは存命中の唯一の翁塚である。

 街道に戻り、県道を横切って天白橋を渡ると、横に長ーい東海道分間延絵図プレートが。 しばらく歩くと(えのき)の大木を乗せた現存の「笠寺一里塚」(右)が迎えてくれる。


 さらに5〜6分、「桜満開の笠寺観音」(下左)に到着。

 山門を入り本堂前を右に曲がると、なんと「宮本武蔵之碑」(右)が有るではないか。

 武蔵は小次郎を倒したあと尾張にやってきて、ここ笠寺観音に滞在した経緯があり、100回忌に武蔵を顕彰して建てたのだとか。「新免武蔵守玄信之碑」と刻まれている。

 武蔵碑横の石碑は「千鳥塚」
 「星崎の 闇を見よとや 啼く千鳥   芭蕉翁」


 宮宿に行く前にもう1カ所寄りたい場所が白毫寺(びゃくごうじ)である。笠寺観音を出た後、名鉄の踏切を渡ってすぐに右へ曲がり、道なりに15分ほど歩くと東海道・鎌倉街道と刻まれた道標が立っている。ここを左に曲がると3〜4分で白毫寺に到着。


 その昔はこの近くまで遠浅の海で年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれていたが、その年魚市が愛知の語源だと云われている。ここは年魚市潟を展望できる絶景の場所であったことから「年魚市潟勝景碑」(左)が建てられたが、今は海は全く見えない。

 年魚地潟を題材にした歌が万葉集に2首有るそうだが、1首が「万葉歌碑」(右)となっている。
 「年魚地潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ」
 年魚地潟は潮が引いたようです。朝、知多の浦を漕いでいた舟も沖の方に云っているのが見えます。


 いよいよ七里の渡しがある「宮宿」が近づいてきた。今は無き七里の渡しをどう越えて行くか。そろそろ考えなければ。

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