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東海道五十三次道中記


        岡崎宿伝馬通りの石像
  

 伝馬通りの「伝馬交差点」から次の交差点までの両側に10体ずつ、合計20体の石像が解説付きで展示されている。岡崎宿をテーマにしたもので、あまりに可愛らしいので20体全部を撮影してみた。



  

 宇治茶を将軍家に献上するための茶壺道中。
各藩の負担は大きかったようだ。
 李氏朝鮮からの友好使節が、
最初に将軍家からの慰労の
言葉を受けるのが岡崎宿である。
 宿場だけでは不足する人馬を、
周辺の村々から調達する制度。
 後には三味線を弾き、唄や踊り
の披露もするようになり、これを
目当ての客も増えた。
 天正十八年に岡崎城に入城。
以降十年間、新しい城下町造り
を行う。矢作橋も田中が架けた。
 旅行者は、宿場毎に馬や人足を
雇いながら旅をした。つまり、継立てをしながら旅を続けていた。
 一般用の町飛脚は、毎月東海道を3度往復したことから三度飛脚。  今でいう専売公社。塩座以外に
茶座、魚座、煙草株などがあった。
 ご馳走とは接待を意味する言葉で、岡崎藩の迎賓館的な意味合いの屋敷。  葱門は、東海道から城郭内に
入る為の出入り口。 岡崎城の
東西2カ所。
 岡崎宿には旅籠屋が百十二軒
あったとされ、、東海道では3番目
の規模。
 塩商人の国分家が、屋敷内に
「市陰亭」という書斎を造り、多くの
文化人達と交流をもった。
 徳川家康の命で造られた施設。
家康が「塚にはええ木を植えよ」と
いったのを間違え榎を植えたか。
 旅には往来手形が必要で
あった。伊勢参りなどの旅だと
手形が容易に発行されたそうだ。
 大名行列などが来ると、
土下座など細かな諸注意が
「作法触れ」として出された。
 岡崎宿の名物「八丁味噌」など
とともに、あわ雪茶屋で出された
「淡雪豆腐」が人気があった。
 東海道の紀行文や、道中記には
必ず登場したという。
現在の矢作橋より長かったそうだ。
 田中吉政は、防衛上の必要性から、城までの距離を伸ばし、間道を
多くした道造りを行った。
 「駒牽朱印」は徳川幕府が、
公用に伝馬を使用するときに
用いた権威ある朱印。
 岡崎宿には、伝馬通りに
本陣三軒、脇本陣が三軒あった。
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