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東海道五十三次道中記
(37)藤川宿 日本の歴史が変わったかもしれない「鳩ケ窟」   街道地図
 本陣1,脇本陣1,旅籠36軒という比較的小さな宿場であったが、宿場の歴史は古く、鎌倉時代から旅人の休息場所として賑わっていた。 ここの宿場は間宿である「本宿」を含めて古い宿場町がよく保存されており、往時の風情をたっぷり味わうことができる。また五十三次の整備を命じた徳川家康にちょっとだけ触れることができる場所もあるので楽しみな宿場歩きでもある。
 
 平成18年3月17日
本宿(間宿)
   国道1号を約20分ほど歩くと、彼方に石碑と松が1本見える。「何か有りそう」と思うと疲れが吹き飛ぶから不思議だ。

 歩道の端に「本宿碑」(左)と本宿由来の説明板がある。本宿は古くは門前町として賑わっており東海道が整備された後は間宿として賑わいを見せていた。

 さらに5分ほど歩くと国道と別れ左に曲がっていくが、入り口に「本宿説明板」(右)と右国道1号 左東海道と刻まれた道標が設置されている。

 もしかしたら200年後ぐらいに、街道歩きのマニアがこの道標を見ながら右の国道1号を歩いているかも。


 本宿村に入ると朱色の欄干の橋が見える。徳川家康が竹千代と呼ばれた幼少のころ、手習いを学んだ場所が橋の奥の宝蔵寺。竹千代が手習いの折草紙を掛けたという御草紙掛松が入り口にあったが残念ながら今は柵だけが。

  山門を入ると階段下の左手に 「賀勝水」(左)と呼ばれる井戸がある。 この井戸には日本武尊東征の際の伝説があるが、また竹千代が手習いのための水を汲んだ井戸であるとも。

右側の階段を上り本堂前の道を左に上がって行くと近藤勇の胸像とともに「首塚」(右)を見ることができる。

  35歳で中山道板橋宿近くの刑場の露となった近藤勇であったが、その首は京都三条大橋の西に晒されることに。それを同士が持ち出し宝蔵寺に葬ったのだとか。


  宝蔵寺から2〜3分歩き 陣屋跡と代官屋敷 の案内板に従って左側の坂を上って行くと病院の右側に「代官屋敷」(左)がある。 文政10年(1827)の建築というから、ざっと180年前に建てられたもの。
 

 街道に戻り数分歩くと左側に十王堂跡の説明板が立てられ、さらにその先の右側に立派な「一里塚跡碑」(右)。江戸から78番目の本宿一里塚の跡であるが、これだけ立派な石碑ならこの先何百年も残ってくれるだろう


 本宿の西側まで来ると、こんどは右東海道・左国道1号と刻まれた道標が建てられている。ここから国道1号に合流、しばらく歩いたら地下道で国道の右側に渡り数分歩いて再び旧街道に。
名鉄山中駅前を通り延命地蔵の前を過ぎると休憩所が。


 休憩所の傍らに「舞木町の由来」(左)が説明されている。雲の彼方から神霊を乗せた神樹の一片が舞い降りたので「舞木」となったのだとか。木片ではなく天女が舞い降りたのならロマンがあるのになー。
 
 しばらく歩くと再び国道に合流。  国道向こうの彼方にみえる 「大きな常夜灯」(右) に吸い寄せられるように田んぼの中の道を歩き山中八幡宮へ向かったのだが、この常夜灯がとても大きい。


 常夜灯の前を右に曲がると「山中八幡宮」(左)であるが鳥居の後ろの楠の大木が凄い。モクモクと天に伸びており、まるで「トトロの森」さながらの景観を見せてくれる。

 この神社には東海道を歩く者にとってぜひ見ておきたい場所がある。そこは本殿の左にある「鳩ケ窟」(右)。
 徳川家康が一向一揆の宗徒に追われこの窟に隠れたが宗徒もここまで追ってきた。そのとき二羽の白鳩が飛び立ったのだが、追っ手は「人がいる場所に鳩がいるはずがない」と立ち去ったという。  家康、命拾いした洞窟であった。

 もしここで家康が捕まっていたら、江戸幕府は無い。江戸幕府が無ければ日本の首都は京都のままだったかもしれない。当然東海道五十三次も無い。となればここを歩く自分も無いし、旅先での人との出会いもない。白鳩が飛び立たなければ歴史は変わっていたかもしれない。

藤川宿
 国道に戻り5〜6分歩くと藤川宿の看板が有るので左に曲がるといよいよ藤川の宿場に入る。

 曲がるとすぐに「東棒鼻跡」(左)があり「棒鼻」が復元されている。ここには棒鼻の説明、傍示杭、五十三次藤川宿絵碑、藤川宿旧跡説明板など見所いっぱいの場所である。
 

 安藤広重の東海道五十三次藤川宿が「絵碑」(右)となっているが、これを見ると、今、目の前に見ている棒鼻と同じ位置に石垣が描かれており、見事に棒鼻が復元されていることがわかる。


 棒鼻の間を通って川沿いの道を歩いていると菜の花が満開。「春爛漫」とまではいかないが春を感じるようになってきた。

 100m程歩き、川と道の間にある「市場改耕碑」(左)を見て丁字路を右に曲がり、次の丁字路を左に曲がる道が旧東海道で、この先は1本道である。
 

 旧街道をのんびり歩いていると城のような造りの建物が。近づくと「人形店」(右)であったが、ひょいと右を見ると「高札場跡」(右)の立て札が立っている。あやうく見逃がすところだった。 


 高札場跡の少し先に「問屋場跡碑」(左)と説明立て札が民家の生け垣の中に建てられている。 車が少ないので道路の真ん中から写真を撮ることも容易。のんびりした町だ。


 少し歩くと交番の隣に藤川宿第二資料館の建物があり、その前庭に「本陣跡碑」(右)が建てられている。  この辺りが藤川宿の中心地で2軒先には脇本陣もあった。
  


 本陣跡の2軒先にある立派な門が 「脇本陣・橘屋」(左) の遺構で、藤川宿に現存する最も古い建物だそうだ。現在は岡崎市の管理で宿場資料館の一部として開放されている。
  

 門を入った右側に「脇本陣跡碑」(右)が建てられている。 藤川宿は何回か大火に見舞われ、当時の建物はほとんど失ってしまったが、脇本陣の門だけが残ったという、当時の貴重な遺構である。


 脇本陣の脇の路地を入って行き本陣の裏手に回ると「本陣石垣」(左)を見ることが出来る。「裏手の警備を厳重に」ということで造られた城壁だが、なかなか立派な石垣だ。

 石垣の前に藤川名物の「むらさき麦が栽培されている」(右)。食用や染料として使われ、藤川宿の名産品だったが、いつしか作られなくなってしまった。平成6年から農業試験場の協力を得て復活させたのだそうだ。


 しばらく歩いた先の藤川小学校前前には「西棒鼻跡」(左)がある。こちらにも「棒鼻」が片側だけ復元されており、説明立て札、傍示杭、常夜灯などが設置されている。

 そばには歌川豊広が詠った「うで蛸の歌碑」(右)が。
     藤川の しゅくの棒ばな みわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし
棒鼻には杉の木の表示があり、店ではうで蛸を売っており、蛸の足がぶら下がっている。
 


 西棒鼻のすぐ先左側に「十王堂」(左)があり、閻魔大王をはじめとした十人の王が祀られている。
十王が記されていたので参考までに。
  秦江王/初江王/宗帝王/五官王/閻魔王/変成王/平等王/太山王/都市王/五道転輪王。

 十王堂の隣にある石碑は「芭蕉句碑」(右)で、詠んでいるのは藤川宿名産品のむらさき麦。
     (ここ)も三河 むらさき麦の かきつばた   はせを


 この先に「藤川一里塚跡」(左)の看板がある。実はここで悩んだ。

 向こうから歩いて来た男性、「リュックを背負い、帽子をかぶり、カメラを持っている」 東海道歩きの方であろうか。声を掛けようか。ところが「一里塚跡」の看板をすっと通り過ぎた。あぁ違うな。

 一里塚跡から5〜6分歩くと名鉄の踏切に差し掛かるが、その手前の道標は「吉良道道標」(右)。吉良道は西三河湾に通じる道で、海産物などを運ぶ重要な役目を担った街道であった。


 名鉄の踏切手前から「松並木」(左)が約1kmほど続く。藤川宿の締めくくりにしてくれるとは憎い演出ではないか。資料によると約90本の黒松で岡崎市指定の天然記念物になっていた。
  

 松並木の終わった所の右側になんとも言えない味わいのある「石灯篭」(右)があったので一枚撮影。自然石にあまり手を加えず積み上げたような灯籠だが、特に云われは無い。


 小さな宿場と思っていた「藤川宿」であるが、「本宿」を含めると見所が多く、江戸時代を存分に味わうことができる宿場であった。

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