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東海道五十三次道中記
(29) 浜松宿  「ぼっくい」 懐かしい言葉に出会った。   街道地図
 浜松宿は浜松城の城下町でもあったことから、本陣6、旅籠94と東海道最大規模の宿場であった。残念ながら戦争でそのほとんどを失ってしまったが、主要な場所には丁寧な説明がなされているので想像力を働かせることができる。

 平成18年2月8日
 天竜川橋はついにバスで渡る羽目になってしまった。橋が狭いのに車が多く、しかも長い。 「長森」でバスに乗り「中ノ町」で下車し再出発だ。


 バスを降りたら堤防まで戻り、 少し下っていくと堤防右手の一段下に明治天皇の「玉座迹碑」と「舟橋之記碑」(左)が並んでいる。明治天皇東幸の際、舟をつないで橋を造ったのだそうだ。
 

 さらに下ると「天竜川木橋跡と舟橋跡」(右)の2本の標柱がある。対岸の豊田町(現磐田市)側に「天竜川橋跡碑」があったが、実際に木橋があった場所がここということになる。



 堤防を降り六所神社を見た後、旧街道に入りしばらく歩くと「軽便鉄道軌道跡」(左)の標柱が有る。たまたまタバコを買いにきたお年寄りに声を掛けたところ 「そうよ、そこよ、軽便が走っていたんだ。40年も前の話だがね」
 

 さらに数分歩くと左側に「かやんば高札場跡」(右)の標柱。「かやんば」不思議な名前だが「萱場」がなまって「かやんば」となれば納得。



 高札場跡から数分先の右側に「金原明善の生家」(左)、その反対側に明善記念館がある。天竜川の氾濫防止に私財を投じて治水に献身した篤志家だそうだ。
  コメント:明善記念館は金原明善生家に移りました。

 旧東海道をさらに先へ歩くと右からの道の合流点に「安間一里塚跡」(右)の標柱が金網の向こうに立っているが、ここは江戸から64番目の一里塚。


 一里塚先の安間橋を渡り、国道1号の高架下を通り、「天竜川駅入り口」まで来ると交差点向こう側に六所神社が見える。さらに歩き、浜松アリーナを右に見てまだ歩く。
国道152号と合流する交差点に建てられているのはと夢舞台・植松原の道標。

 交差点を渡らず左側の道を50mほど入ると源範頼が娘の安産を願って創建したと伝わる「子安神社」(左)がある。
 

交差点には横断歩道が無いので地下道を通って向こうに渡るのだが、地下道に入ると方向が分からなくなるという困った症状が出るので悩ましい。

 交差点を渡ると国道152号が旧東海道。まもなく見えたのは「神明の鳥居」(右)。 


 神明の鳥居から数分先右側の「龍梅禅寺」(左)には松平信祝の娘が葬むられているということで覗いたら焼餅地蔵が鎮座している。何故「焼餅」なんだろうか。

 「馬込一里塚跡」(右)が見つからない。通りかかった方に聞いたところ「知らんだなー、有れば《ぼっくい》があると思うんだがナー」。 《ぼっくい(棒杭)》懐かしい言葉だ。最近はついぞ使ったことは無かったが。そういえば 「焼けぼっくいに火が・・・・」と言うが。

 一里塚跡標柱は浜松東警察署先に有りました。  


 馬込一里塚跡を確認して先へ歩くと馬込橋の手前に「外木戸跡」(左)の標柱があり手前には旧掛塚街道入口、道路の向こう側には旧笠井街道入口の標柱も建てられている。3本とも《ぼっくい》といった方が似合いそうな木製の標柱だ。
コメント:平成18年の記録なので、現在は「外木戸跡」の標柱は無いかもしれない。

 馬込橋を渡ると数分先の右側に「夢告地蔵」(右)の堂が見える。この地蔵様は江戸時代末期のものだが、廃仏毀釈で地中に埋められてしまった。ところが「助けてー、助けてー」と町民の夢枕に。 かわいそうにと掘り起こされてこの地に安置されたそうな。


 ここから平成18年2月9日

 再びR152を西へ。 学園通り、アクト通りを横切り、広小路、中央通りを横切ると連雀交差点に行き着く。 ここも地下道で横断、階段を上がると大手門跡の板書。その裏に「大手門跡碑」(左)がある。 

 旧東海道は連雀交差点を左に曲がるわけであるが、「浜松城」(右)を見ずに先へは行けまい。

 右に曲がり、大手門跡碑の前を真っ直ぐ行くと天守閣が左手に見えてくる。浜松城で30分ほど過ごし、連雀交差点へ戻ってきた。


 真っ直ぐ行けば旧東海道であるが、ちょっと寄り道して右に曲がり蓮華寺へ行くことに。
本堂前に「芭蕉句碑」(左)がある。

 八九間 そらで雨降る 柳かな  はせを

 蓮華寺の芭蕉句碑を見たら再び 「連雀交差点」 に戻り、右へ曲がって行く。

 連雀交差点から次の伝馬町交差点までが宿場の中心地で、当時は本陣が軒を並べていたのだが、
今は往時の遺構は全く残っていない。しかし、丁寧な説明板が設置されているのでご紹介しよう。
浜松宿本陣通り


 しばらく歩いて成子交差点渡って右に曲がり200mほど歩くと子育て地蔵尊の御堂が有るのでここを左に入る道が旧東海道。旧東海道はここから「二つ御堂」辺りまで約1、5km程が真っ直ぐな八町畷であったが、今はちょっとだけ曲がったりしている。


 子育て地蔵尊から十数分歩くと国道251号の「鎧橋」(左)という小さな橋を渡るが、この橋には平安時代の伝説が残されている。比叡山の雑兵が鴨江寺を攻めた時、鴨江寺の軍兵が鎧を着てこの橋を守ったので、「鎧橋」といわれるようになったのだそうだ。

 平安時代の名称が今も使われている。歴史のロマンを感じますねー。

 鎧橋から数分歩いた先の左側に「若林一里塚跡碑」(右)と説明板が建てられている。  



 八丁畷の終わったところで道路は大きく右に曲がるが、その両側に建つのは「二つ御堂」(左)。

 奥州平泉の藤原秀衡の愛妾が「北堂」を、秀衡が「南堂」を建立したという。


 街道を歩いていると「高札場跡」(左)等の標柱に混じって「麦飯長者」(左)なる標柱を見つけた。かつて、小野田五郎兵衛という長者が旅人に麦飯をふるまったので「麦飯長者」と呼ばれるようになったのだとか。


 ちょっと寄り道。麦飯長者標柱手前の交差点を左に入り7〜8分、六所神社入口に樹高40mという「音羽の松」がそびえていたそうだ。 遠州灘を航行する船の目標になっていたということだが、現在は「2代目音羽の松」(右)がどういうわけか傾いて立っている。


 麦飯長者から10分ほど歩くと道が二手に分かれるが、右の真っ直ぐな道が旧東海道。

 数分歩くと「立場本陣跡」(左)があるはずだが、無い。探し回った結果、見つけたのが道端に横たわる「立場本陣跡」と書かれた「ぼっくい」。近所の人に聞いたところ左写真の建物だという。

 さらに十数分歩くと右側の民家の庭先に「一里塚」(右)と書かれた説明板が立てられ、日本橋より67里と記されている。ということは「篠原一里塚」が有った場所。

 篠原一里塚跡を過ぎると「秋葉常夜灯」(下)が頻繁に現れる。似たような形であってもそれぞれに微妙に違っており味わいがあるものだ。

 まもなく舞坂宿に入るが、ここまでの道のりは長かった。しかも寒かった〜。天気は快晴なので快適な旅ができるはずであるが、どっこい、有名な「遠州の空っ風」が強くて非常に寒い。

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