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東海道五十三次道中記
(28) 見付宿  見付宿の鯛焼きは旨かった!  街道地図
 見付宿は、遠江の国府として古くから栄えた町であったが、江戸時代に入ると宿場町として東海道有数の規模に繁栄していった。現在の見付宿は道路が広くなり昔の面影を探すことは難しいが、本陣跡、脇本陣跡、木戸跡、そして17あるという小路などに丁寧な表示がされており、東海道を歩く者にとってはうれしい宿場といえる。 

 平成18年1月28日
 今回は、職場の元上司であったさんと一緒に見付宿を歩いたが、さすが地元の人、見付宿のことは詳しい。

 太田川に架かる三ケ野橋を渡ったら土手を20mほど下ると右側に「旧東海道の入り口」(左)が見える。土手を駆け下り、車道を横切って旧街道へ。

 わずかに残った松並木の下を進むと道が二つに分かれるが、それぞれに道標が設置されている。

 真っ直ぐ行く道が「明治の道」(右)、右に曲がる道が「大正の道」(右)である。ここは迷わず明治の道を進むことに。


 すぐに「江戸の古道」(左下)の道標があり左に上る細い道がある。

 ここを歩いたどなたかが旅行記に「怖い道だ」と書いていたが、確かに薄暗く怖い。が、今回は同行者がいるので安心。
  
 

 坂を登り切ると、向こう側から上ってきた道と合流。傍らに「鎌倉の古道」(右)と刻まれた道標が設置されている。鎌倉時代の道がよく残ったものだ。



 ちょっと寄り道。旧街道は右に曲がっていくのだが、左に曲がると「大日堂碑」(左)が設置された広場がある。

 上洛をめざす武田信玄軍が木原に陣を布いた時、これを迎え撃つ家康軍の本多平八郎忠勝が松の大木に登り「物見」をした場所だそうだ。高台であるため太田川から向こうが一望できる。

 旧街道に戻り少し歩くと、さきほど分かれた「大正の道との合流点」(右)に色々な石碑が立っている。「明治の道」「車井戸の跡」「鎌田山薬師堂道標」等々。



 しばらく歩き国道1号に合流して歩道橋に上がると、「国道から右に分かれる旧東海道」(左)が。

 歩道橋を下りてちょっと歩くと、階段の上に「遠州鈴ケ森跡」(右)があり、草むらの中に「日本左衛門」の供養塔が寂しく立っている。

 日本左衛門はここで処刑され、見付宿でさらし首になったが、愛人が持ち帰り金谷宿の「宅円庵」へ葬ったという。


 鈴ヶ森の先から右に入る道が旧東海道。住宅街の坂を下りきった所に「木戸跡」(左)の表示板があり、ここから宿内ということになる。反対側の急な階段を登った所は阿多古神社
 
 阿多古神社に一里塚碑が有るはずだが、無い!

 下に降りて近くの人に聞いたところ「石碑が有るわよ」ということで案内してもらってもう一度上がってみたところ、あった!神社の裏手の小さな山の上に「一里塚碑」(右)がありました。
  



 磐田市観光協会のパンフレットによると、道路右側にもう1カ所の「一里塚碑」が有ることになっているが、どうしても見つからない。
 同行のさんが後日、苦労して探し出し写真(左)を送ってくれたのです。

 さんが送ってくれた写真の「一里塚碑」(左)は民家の間の奥の方に有ったとのことでした。拡大してみると(右)、一里塚の小山と一里塚碑が見事に写っている。ちょっと不思議なことは、左右の一里塚が山の上と下に離れていることだ。理由は分からない。


 見付宿に入り可愛らしい愛宕橋(こちらは愛宕)を渡って右に入ると「矢奈比売神社」(左)、通称「見付天神」に行くことができる。

 この神社では天下の奇祭といわれる「裸祭り」が8月の中旬に行われる。これは「国指定重要無形民族文化財」に指定されているそうだ。

  参道を歩いていたら「立派な鶏」(右)に遭遇。この鶏、人を全く恐れない。写真を撮ろうと近づいてもチラッとこちらを見るだけ。しかし神社に鶏は合うんだなー。尾がもっと長かったらそれこそ御神鶏だ。


 見付には小路が十七有るそうだ。全部を探すことは出来なかったが、各小路の入り口には「石の標識銘板」(左)が歩道に埋め込まれている。
コメント:平成18年時点の記録であるため、現在はは無いかもしれない。

 「不要小路」(左)という理解に苦しむ小路もあった。説明を読むと「家と家との間が狭く、住人しか通らなかった。一般の人には不要な道だから不用小路」。 失礼なネーミングだよな。

 また右のような石道標が置かれた場所もあり、丹念に見て行くと飽きない道である。



 さんが、旨い鯛焼きの店があるからと向かったのがJA見付支店手前を右に入った和菓子屋さん。
いい香りに思わずパクっ。 外はパリっ、中はしっとり、しかもアンが小豆と鶯の二色。お勧めです。
ただし午後3時から5時までの限定販売なのでご注意を。
  

 見付宿は東木戸から西木戸まで約1km。見所が多いので地図で一挙に紹介。


 西木戸跡を出て国道1号を横断し、しばらく歩くと「遠江国分寺跡」(左)があり、近くには国分尼寺の講堂跡も発掘されている。天平時代までタイムスリップしてしまったが、貴重な遺跡を見ることができた。


 現在は礎石が残るだけの広場だが、磐田駅前にCGによる「復元図」(右)が掲示されている。天平時代(710〜794)にこれだけしっかりした建物が作られたことに驚きを感じる。


 国分寺跡の前が府八幡宮であるが、その横のワークピア駐車場に、遠江国守桜井王が天皇へ送った望郷の念の一首、及び天皇からの返歌一首が刻まれた
「万葉歌碑」(左)を見ることができる。

   天皇へ送った一首   九月之其始雁乃使爾毛念心者可聞来奴鴨
                          九月のその初雁の使いによって、私のお願い申し上げる気持ちは、天皇のお耳にとどかないのでしょうか。

   天皇よりの返歌一首  大乃浦之其長濱爾縁流浪寛公乎念比日
                          大の浦の長々とした水際に寄せる波のように、心ゆったりとおおらかな気持ちであなたのことを考えているこのごろです。


 旧街道に戻り、真っ直ぐ行くとJR磐田駅となるが、駅前ロータリーの手前に「善導寺の大楠木」(右)が
そびえている。ここは善導寺の境内であったことからそう呼ばれているようだが、推定樹齢700年以上
とはすごい。この大木は県指定の天然記念物だそうだ。


 見付宿は見応えがあり、たっぷり堪能させてもらった。
 今日一日付き合ってくれたさんありがとうございました。

 ここから平成18年2月8日

 JR磐田駅前の大楠木を左に見て「天平通り」に入り最初の交差点を左に入る道が旧東海道で、板書された標識が置かれている。
 注:国分寺跡方向から来た場合は右に曲がる。 コメント:平成18年時点の記録であるため、現在は板書は無いかもしれない。



 30分ほど歩くと右側に小高い丘が作られ頂上に 「一里塚之跡碑」 (左)が設置されている。江戸から63番目の 「宮之一色一里塚」 が有った場所で、昭和46年に復元したのだそうだ。

 10分ほど歩くと道が二手に分かれるが左側の真っ直ぐな道が旧東海道である。さらに20分ほど歩いた先の交差点手前に「夢舞台・長森立て場跡」(右)の道標。隣に「長森こうやく」の説明板があり、山田与左衛門家のこうやくは大変な人気であったと記されている。 


 道標を見た後 「この交差点でいいのかな」と地図を見ていたら向こうの方で 「おーい、おーい」という声がし、右へ行け右へ行けと指さしている。 こちらの風体から東海道を歩いているのだと察してくれたのだろう。ありがとう。


 交差点を右に曲がって100mほど先を左に入ると 「天龍川橋跡碑」(左)が公園の一角に据えられている。長い間渡船だった天竜川に、木橋の「天竜川橋」が架けられた時代があったことを後世まで伝えるために設置された碑だそうだ。

 天竜川には3カ所の渡船場があった。いずれも現在の天竜川橋よりかなり上流。
「下の渡船場」の近くの堤に「天龍川渡船場跡碑」(右)がある。



 下の渡船場から200mほど上流の堤外側の天白神社境内に「夢舞台・池田渡船場跡」(左)の道標があり、さらに上流300mほどの所に「池田橋跡碑」(左)が建てられている。

 池田橋跡碑のすぐ下には「池田の渡し・歴史風景館」(右)がある。無人であるが、渡しの歴史を記したパネルがあり、ベンチも有るので休憩には最高の場所だ。
  


 いよいよ天竜川を渡って浜松へ入るのだが 「天竜川橋」(左)が怖い。  なにしろ狭い上に歩道が無い、それなのに車が多い、しかも長いときている。ここはバスで渡るしかなさそうだ。

 バスを待っていたら、地元のお婆さんが「歩け歩け?」「どこから来たの」「ひゃー横浜!」「元気だねー」「車に気をつけるのよ」 
「いやー親切なお婆さん ありがとうございます」

 


 磐田市教育委員会さん、一つだけお願いしてもよろしいですか。「阿多古一里塚」へ行く案内板を設置してもらえると嬉しいのですが。

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