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東海道五十三次道中記
(27) 袋井宿  ついに来ました。東海道ど真ん中「袋井宿」   街道地図
袋井宿は他の宿場より遅れて元和2年(1616)に制定されている。宿場の規模は比較的小さかったが遠州三山への参詣客で賑わっていた。江戸からも京都からも27番目、つまり「真ん中の宿場」ということで「ど真ん中茶屋」を作り、町をあげて「ど真ん中」を売り込んでいる。 

 平成18年1月28日
 国道1号の同心橋を渡り、すぐに左側の階段を降りると「花茣蓙(ござ)公園」(左下)がある。


 ここは立場が有った場所で、奈良時代から郡役所があり東西交通の要所であった。今は民家が並ぶ静かな住宅地。

 住宅街の途中から松並木が続くが、途中にジャイアント馬場でも担げないような大きな駕籠が置かれている。

 さらに歩くと右側に「富士浅間神社の大鳥居」(右)。 神社はここから1kmほど北であるため見学はあきらめた。 ちなみに、神社の建物は国指定の重要文化財だそうだ。


 大鳥居から10分ほど歩くと小学校の校庭に「久津部一里塚」(左)が復元されているが、道路から入れるようになっているのが嬉しい。

 これまでに多くの一里塚を見てきたが、それぞれに地元の人達の保存に対する熱い気持ちが伝わってくる。

 15分ほど歩いた先の「七つ森神社」(右)には悲しい伝説が。
 その昔、日坂宿に怪鳥が現れ悪さをしていた。これを退治するため朝廷から7人の武士が派遣されたが返り討ちに遭い全員落命。
その7人の墓がここだという。


 今歩いている道は、一里塚や神社、秋葉常夜灯、さらに遠州三山への道標など様々の道標が次々に現れるので飽きずに歩くことができる。


 ついに出ました、これぞ「秋葉常夜灯」(左)。龍などの彫り物が施され、それはそれは立派。石灯籠の常夜灯とは大変な違いだ。旧街道を出て最初の交差点を渡り左へ20mほど歩き、右へ入った先に有る。

 常夜灯を右に見て真っ直ぐ進むと袋井市役所の前に出る。左に曲がり最初の交差点を渡って、もう一度右に渡ると、植え込みの中にあったのは「袋井宿石柱と説明板」(右)。

 ついに「ど真ん中」袋井宿に到着。


 次の三叉路向こうに、こじんまりとした「ど真ん中茶屋」(左下)が見える。茶店のおじさんが「おーい寄っていきなよ」 お茶をご馳走になっているとリュックを背負ったご夫婦が到着。

 話を聞くと、東海道を江戸に向かって歩いているのだそうだ。が、このご夫婦はすごい。江戸から京都まで歩き、今度は京都から江戸に向かって歩いている途中なのだそうだ。夫婦道中も悪くないナー。
 

 すっかり疲れもとれたし出発だ。茶店のおじさん有り難う。

 茶店を出て数分、右側に冠木門が設置された広場があるが、ここは「東本陣跡」(右)。


 本陣跡の斜め前は「宿場公園」(左)。門を入ると広々した芝生広場があり、これを取り囲む屋敷塀には袋井宿の歴史などが記されている。

 宿場公園を出てさらに4〜5分、左側に「高札場」(右)が復元されている。

 ここには秋葉常夜灯と従是袋井宿と記された傍示杭も建てられており、袋井宿の西入口となるようだ。


 御幸橋を渡った数分先の御料坊傍示杭の上に「万葉歌碑110m」の文字が。

 袋井中学校の玄関前に「万葉歌碑」(左)と説明板がある。
   「時々の花は咲けども何すれそ 母とふ花の咲き出来ずむ」
   「遠江白羽の磯と贄の浦と あひてしあらば言も通はむ」
 
ともに防人の歌。

 旧街道に戻りさらに数分、左側に見える洋館は「旧澤野医院」(右)。建物は江戸末期から昭和初期にかけて建て増しされたもので、袋井市指定の文化財。


 国道1号に合流して500mほど歩き右に入る道が旧東海道である。旧街道を数分歩くと背の高い木が見えるが、ここが「木原一里塚」(左)。復元であるが、後世のために復元して残そうという心意気が嬉しいではないですか。

 その先に「古戦場跡 木原畷」(右)がある。この辺りで陣をはった武田信玄軍と徳川家康軍の兵がこぜり合いを繰り返した場所で、いわば三方ケ原合戦の前哨戦がここで行われたことになる。

 写真真ん中の石は徳川家康が座った石だそうな。


 旧道から再び国道1号に合流し三ケ野橋」渡ると「見付宿」が近い。

 今でも参詣客で賑わう遠州三山を紹介しておこう。
 眼病平癒で名高い医王山薬王院油山寺、 火防霊山そして牡丹園で有名な万松山可睡斎、 厄除け観音としてその名を知られる法多山尊永寺の三山が「遠州三山」と呼ばれ、地元のみならず遠くからも観光を兼ねた参詣客が訪れるそうだ。

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