表紙へ戻る
東海道五十三次道中記

(20) 丸子宿  丁子屋の「麦とろ」 食べましたよ。 うまいじゃん、と言いながら  街道地図
 丸子宿は安倍川と宇津ノ谷峠の間にできた江戸から20番目となる宿場である。丸子川に沿った細長い宿場であるが、名物はなんといっても茅葺き屋根が人目を引く丁子屋の「とろろ汁」だろう。 十返舎一九はなんと、とろろ汁を食べにきた弥次さん喜多さんの前で丁子屋夫婦に、夫婦喧嘩をさせている。
  「けんかする 夫婦は口をとがらして 鳶とろろにすべりこそすれ」

 平成18年1月17日


 今渡ってきた「安倍川橋」(左)を振り返ると、その先に真っ白な富士山が見える。いい姿だ。

 立ち止まって地図を見ていたら、お爺さんがバイクから降りてきて 「今日はどこまで行くかね」 「この間はチョンマゲを被った学生さんが歩いとったが」  「儂も歩いてみたいんだが歳だからなー」 いやいやまだまだお元気ですよ。

 しばらく歩くと国道1号に合流。さらに数分ほど歩いたら「左に入ると」(右)丸子の街並みとなる。


 曲がるとすぐにお堂が目に入り、吸い寄せられるように近づいてしまった。立派な「地蔵堂」(左)であるが由緒などの説明は無い。

 地蔵堂の反対側で井戸端会議中のお母さん方が手招きしている。「こっちも見なきゃだめよ」。 ちょっと奥まった所に「万葉歌碑」(右)がある。有り難う!

「さわたりの てごにいきあい あかごまが あがきをはやみ こととわず」
「美しい娘に出会ったが、乗っている馬の足が速いので、声を交わさずに来てしまった」


 丸子の商店街を抜けると小学校先の右道端に江戸から46番目の「丸子一里塚跡碑」(左)がポツンと立っている。一りづかあととひらがなで刻まれているところがユニークだ。


 500mほど歩くと左側の土手の上に「水神社」(左)、その先に「馬頭観音の祠」(左)。神社や観音様、お地蔵様がよく目につく。都会では見られないなー。

 馬頭観音から7〜8分歩くと左側に「明治天皇小休所跡碑」(左)、その先右側に「丸子宿本陣跡碑」(左)、さらに少し先にも明治天皇御小休所址碑が。

その先に見えるのは「お七里役所跡碑」(右)。

 由比宿でお七名里役所跡を見たが、それから七里も歩いてきたことになる。


 ほどなくすると土産店が並んでおり、その後ろに茅葺きの家、「丁子屋」(左)がある。丁子屋の横に「十返舎一九の碑」(右)。刻まれている句は冒頭の「けんかする 夫婦は・・・」
その横に「芭蕉句碑」(右) 「梅若菜 丸子の宿の とろろ汁  芭蕉翁」

 ここへ来たらとろろ汁をたべなければなるまい。とろろ汁は「いいじゃん、いいじゃん、うまいじゃん」と言いながら食べるのだそうだ。
イヤー食べた食べた!お櫃を空にしたよ。



 丁子屋のちょっと先左側に「細川幽齋の歌碑」(左)がある。安土桃山時代の大名歌人というからざっと400年前の人。信長・秀吉・家康に仕え、三代忠利から熊本城主となり、以降、明治維新を経て細川護煕まで18代続くというからすごい。

 歌碑の手前の丸子橋を渡ると「高札場」(右)が復元されている。昔はこの前に多くの人が集まって、ため息をついたり落胆したり、人生を狂わされた人も沢山いたのだろうな。
 


 しばらく歩くと駐車場の一角に「羅漢さん」が数体。長源寺という表示と起樹天満宮の石柱につられて左に入ると「羅漢さんがずらーっと並んでいる」(左)。ユーモラスな顔と仕草は疲れを忘れさせてくれる。

 この先は国道1号に沿って歩いていくと道の駅に行き着く。

 途中に「片桐且元夫妻の墓」があるがちょっと遠いのでパス。道の駅の先で左の階段を登ると、江戸時代以前の古道蔦の細道へ入れる。 旧東海道は国道を跨ぐ「歩道橋」(右)を渡って行く。


 歩道橋を渡り数分歩くと道が二股になるので左に入ると「宇津ノ谷集落」(左)となる。100mほどの坂道の両側に家が並んでおり、子供の頃を思い出す風景だ。

 中程の右側にひときわ古い「お羽織屋」(右)の建物がある。 「お羽織屋」には豊臣秀吉から賜ったという「羽織」が有るそうだ。 家康からも「茶碗」を賜ったという。

 お羽織屋の手前を右に入ると十団子伝説が残る慶龍寺に行かれる。


 集落の突き当たりにある階段を登り「明治のトンネル」(左)を見てゆくことに。

 ひっそりとした先にオレンジ色のランプで照らされたトンネルが見える。トンネルを見に来たという男性が一人でトンネルに入って行ったが、何だか異次元の世界に向かっているような錯覚を。  

 旧東海道に戻り山の中の細い道を登って行くと今歩いてきた「宇津ノ谷の集落」(右)が一望できる場所がある。江戸時代の旅人もたぶんここで一休みしたんだろうな。


 俳人雁山の墓などを見ながら山道を登って行くと石垣が有るではないか。

 その昔、頂上近くのこの斜面に地蔵堂を建てるために石垣を作ったのだという。石垣の上が広場になっており、今は「地蔵堂跡」(左)として碑が建てられている。

 地蔵堂のすぐ上が「峠道」(右)でその先は下りとなる。

 豊臣秀吉が小田原攻めのために10万の大群を率いて通り、徳川家康は関ヶ原に向かって20万の兵馬とともにこの道を通ったと思うとゾクッと身震いが出る。こんな狭い道ではさぞ難儀したことだろう。


 明治トンネルに入った男性は無事に平成の世に戻れただろうか。そういえば蔦の細道を通って宇津ノ谷に戻ると言っていたが、ひょっとして江戸時代にタイムスリップしてしまったのでは。

前の宿場府中宿へ    次の宿場岡部宿へ    表紙へ戻る