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東海道五十三次道中記
(14) 吉原宿 見えましたよ!左富士が。まさに左側に。   街道地図
 吉原宿は、最初は海岸に近い場所であったが、津波で2度も流されたため現在の位置に移されている。このことが影響して間の宿である岩淵の方が栄えてしまった時期があったようだ。宿場の中心は現在の吉原商店街辺りだが「吉原宿」という標柱が1本立っているだけで、ちょっとそっけない感じがしないでもない。

 平成17年12月16日
  富士市に入ると富士山がますます大きい。まもなく県道に合流するが空は真っ青だし霞も出ていない。「左富士」が見られそうだ。

 県道に合流して4〜5分歩くと右側に「六王子神社」(左)。ここには悲しい伝説がある。
  京都へ向かう巫女7人。このうちの一人「おあじ」が龍の生贄に選ばれてしまった。仲間の六人は悲しみのあまり浮島沼へ身を投げてしまったという。
村人がこの神社に弔ったそうだ。

 六王子神社のすぐ先の信号を右に曲がると「東田子の浦駅」(右)の後ろに富士山が見える。富士山はいつ見てもいいなー。信号向こう側の酒屋さんの脇を入って行くと延命地蔵尊の御堂がある。


 信号の先、左側を5分ほど歩くと間宿・柏原本陣跡と記された標柱が道路際に立っており、その右前方に立派な山門が見える。

 立円寺の山門を入ると「望嶽碑」(左)と赤いイカリが目に入る。尾張藩の柴田景浩が立円寺に滞在したおり、富士の絶景に感嘆し思わず碑を建立してしまったのだとか。

 隣に昭和54年(1979)、沖合で遭難したゲラテック号の遭難碑とイカリが展示されている。

 街道を歩きながら、ふっと右の路地奥を見ると「賽神(道祖神)(右)が。近づいて見ると男女二人。思わず一枚。


「広沼橋」の下を流れる川は「昭和放水路」(左下)。

 度重なる水害から村民を守るため原宿の増田平四郎なる人物が大規模な排水路を完成させたのが明治2年。ところがその年8月の高波で跡形もなく壊されてしまい平四郎の計画はあえなく頓挫。

時が移り昭和18年(1943)、「昭和放水路」が出来た場所が平四郎の排水路と同じ場所であった。

 橋を渡ると江戸から33番目の沼田新田一理塚が有ったことを示す標柱が立っている。その横を左へ曲がると見えたのは「増田平四郎石像と石碑」(右)。


 20分ほど歩くと県道は大きく右にカーブ。旧東海道は「旧東海道順路」(左)の親切な標識に従って左に入るのだが、旧道に入ると車が少なく静かな街道に変わる。途中、庚申堂などを見ながらてくてくと。

 さらに先へ行くと民家と民家の間の植え込みにあったのは「天文堀碑」(右)。

 高橋勇吉なる人物が洪水対策として14年の歳月を費やし嘉永3年(1850)に完成させたもの。勇吉が「天文」の知識に優れていたので「天文堀」と言われたそうだ。


 この辺りから「製紙工場の煙突」(左)が見えてくる。真っ青な空に赤白縞模様の煙突と真っ白な煙が絵になるが、これは煙?水蒸気?

 先ほどから看板があった毘沙門天(妙法寺)の参道が見えたので階段を上ってみた。立派な寺であるが、びっくりしたのは「大香炉」(右)。この派手さは半端じゃない。

 毘沙門天を出てしばらく歩き、右に折れ東海道線の踏切を渡るといよいよ「左富士」が近い。


 製紙工場に沿って歩き 河合橋 を渡ると今まで右に見えていた富士山が正面に見える。国道1号を越えると道路が右にカーブ。これは期待出来そう。 左富士神社 辺りから
ちらちら見える富士山は左側に移っている。

 左富士神社の先の交差点まで来るとまさに「左富士」(左)。行く手の左側に富士山が見える。大変残念なのは真っ赤な看板やら電線が邪魔をして「見事な富士山」というわけにはいかない。

 交差点際に「左富士の碑」(右)と松が1本。碑には広重の「五十三次 吉原左富士」(右)が彫られており、当時と今が比較できるのが面白い。 

 藤沢宿先の「南湖の左富士」は見られなかったが、今日はきれいに見えたので満足、満足。 


 赤い看板を通り過ぎると道が大きく左にカーブするため富士山は徐々に右側に移ってしまう。この先 、向かうは「平家越碑」。

 平家越橋の袂に「平家越碑」(左)と東海道道標がある。

 時は治承4年(1180)、川原に源・平の両軍が対峙。夜半、源氏の軍が動くと水鳥が一斉に飛び立った。 これに驚いた平家軍は我先に遁走。「源平富士川の合戦」が行われた場所がこの辺りだと云われている。

 平家越橋を渡り真っ直ぐな道を進み函南鉄道の踏切を渡ると吉原商店街に入る。この辺りが吉原宿の中心で本陣などが有った場所であるが、それらしい表示等は無い。銀行横に「吉原宿」(右)と記された道標が立っているのみ。


  銀行横の道標に従って左に曲がり橋の手前まで来ると西木戸跡の標柱が立っている。ここまでが吉原宿内。この先は国道の大きな交差点で旧街道が分断されてしまうが、
斜め向こう側の細い道が旧東海道。

 旧東海道から一旦県道に出た後、案内板に従って再び旧道に入り富安橋を渡って行く。しばらく歩くと、民家の塀に囲まれて「賽神」(左)がお座りになっている。ちょっとふてくされた顔に見えるが毎日座ってばかりいるので飽きてしまったのかな。

 交差点を越えて「県総合庁舎」前に来ると「本市場 間宿碑」(右)が建てられている。

 その少し先に鶴芝の碑。富士山中腹の雪景色が「鶴」に見えたそうだが、では「芝」は何?説明板にはこの事は触れてなかった。


 県道を横断した道を入って行くと、左側のお花畑の端に小さな石碑が有り、「旧東海道一里塚」(左)と刻まれている。ここは江戸から35番目の「本市場一里塚」。日本橋から約140km。まだまだ京都は遠い。

 富士本町通りという商店街を越えて道祖神がある交差点を左に曲がってちょっと寄り道を。三つ目の交差点を曲がった先の公園(現・富士市交流プラザ)「芭蕉句碑」(右)がある。

 「ひと尾根は しぐるる雲か 不二の雪   芭蕉翁」(右)。
芭蕉さんも寄り道したのだろうか。


  旧東海道に戻り静かな街道を歩いていると札の辻跡と刻まれた石碑が。高札場が有った場所である。この先の県道と合流した右側の天白神社の境内には男女が寄り添う道祖神が有った。
この辺りで男女寄り添った道祖神は珍しい。

 ここから平成17年12月21日

 身延線のガード下を通り五差路の交差点を通り過ぎると右へ入る細い道がある。その入り口の「秋葉常夜灯と東海道道標」(左)を見ながら入って行く道が旧東海道。

 街道の途中で右に曲がり、土手を上ったた場所が「雁(かりがね)(右)である。この堤は富士川治水のために築かれたもので、完成まで50年を要したという巨大なもの。

 堤の形が雁が連なって飛ぶ様子に似ているので「雁堤」と呼ばれたらしい。あまり大きすぎて写真に入りきらない。


 堤の一角に由来を記したパネルや歌碑などがあり、その一段下がった場所に悲しい歴史を持つ護所神社がある。堤を流出の惨害から護るため千人目の旅人を人柱にすると決め旅僧が人柱になったという。護所神社には僧の霊が祀られているが、なんとも酷く悲しい話である。


 旧街道から県道に合流するとまもなく緑色の「富士川橋」(左)が見えてくる。昔懐かしい造りの鉄橋で右側に歩道橋が併設されている。

 橋の手前右側に松岡水神社の鳥居があり5,6段の階段を登ると水神社にたどり着く。ここは渡船場があった場所で階段の手前に「渡船場跡碑」(右)がある。またその右には「富士山道の道標」も。


 いやーこの区間は長かった。片側だけ「間宿」を持つ宿場はあったが、前後に「間宿」がある宿場は初めてだ。 さあ、富士川を渡るとするか。

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