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日光西街道道中記

(7) 板橋宿 から今市追分へ 板橋宿も小さな小さな宿場であった。わずか数分で通り過ぎてしまう町並みに
宿場時代の面影を探すことは難しい。
街道地図

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 平成20年2月19日  喜沢追分を出発してテクテク、終点の今市追分に到着しました。

文挾(ふばさみ)宿を出てかれこれ1時間。杉並木が途絶えた先の右側に小さな祠があり中に如意輪観音が祀られている。その隣りの小さな盛り土は現存の「板橋一里塚」(左)。

再び杉並木となるがすぐに「旧板橋宿」(右)の集落。ここには本陣、脇本陣や問屋もあったのだが今はそれらの痕跡が見当たらない山間の静かな里であった。
 

数分歩いた先の右側に福生寺(ふくしょうじ)という寺院があるがここに「本田正盛の墓」(左)がある。

あまり知られていないが日光東照宮造営時の副奉行を務めた人物。同僚とのトラブルにより造営工事完成の後、41歳の若さで自刃、福生寺に葬られたのだとか。

街道は福生寺の先で左に曲がり100mほどで右に曲がると再び杉並木へと入っていく。並木入口にひっそりと立っていたのは奥州街道でよく見かけた「勝善神」(右)。

この先も歩くのは杉並木の外。冬場なので踏み跡が見つかり何とか車道を歩かずに済むが夏場は笹に覆われてしまうかもしれない。

再び薮こぎと枯れ枝に足を取られながら小一時間。

一瞬、杉並木の乱れが生じる場所がある。ここが「地震坂」(左)と呼ばれる場所で昭和24年(1949)の大地震で杉並木が地すべりにより移動してしまった場所だそうだ。

 地震坂の少し先から急な下り坂になり再び上り坂。この上り坂を「十石坂」(右)と呼んでいるのだがここで失敗。再び並木の外を歩いたため十石坂の説明板を見落してしまったのだ。後ほど調べたところによると「東照宮造営に使う石を運んできた黒田長政一行はこの急坂を越えるのに難儀、ついには米10石を食べてしまった」ので十石坂なのだとか。

十石坂を上り高速道路の下を過ぎると左側に「室瀬一里塚」(左)が現存。元々なのか削られたのか分からないが、あまりに小さいので表示が無ければ見落してしまいそう。

やっとJR日光線との交差までたどりつき踏み切りを渡ると「今市の追分」が近い。

追分に行く前にちょっと寄り道を、と歴史民族資料館に向かったのだが途中に「アヒルの夫婦」(右)が。可愛いね〜。

街道に戻るとすぐに「今市の追分」(左)で日光街道に合流し今回の旅が終わった。左の真っ直ぐ行く道が日光街道、右の杉並木に入る道が日光西街道(例幣使街道)である。

追分の三角地帯に鎮座しているのは「追分地蔵」(左)。石彫りの座り地蔵だが見上げるような大きさ。

制作年代は不明だが八代将軍吉宗が日光社参の時にはすでにあったと記録されている。以来ここに鎮座して旅人を見守ってきたお地蔵さん、旅が無事に終わりました。

喜沢の追分を出発し今市の追分までの間に、古墳があり、国分寺跡があり、いくつもの現存一里塚があり、金売り吉次の墓もあった。絢爛豪華な鹿沼屋台を見学し、
最後は杉並木を堪能するという、飽きない街道旅であった。

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