表紙へ戻る
日光西街道道中記

(1)飯塚宿 日光街道から分かれ壬生道に入って最初の宿場である飯塚宿は承応3年(1654)に伝馬宿となったのだが、
今は当時の面影が見られない。
ところが江戸時代よりはるか昔、古墳時代・天平時代の遺跡が見られるという飯塚宿である。
街道地図

(1)飯塚宿  (2)壬生宿  (3)楡木宿  (4)奈佐原宿  (5)鹿沼宿  (6)文挟宿  (7)板橋宿

 平成19年12月12日  古墳があり、国分寺跡があり、紫式部の墓もありました。

日光街道「喜沢の追分」(左)を左に曲がる道が日光西街道(壬生道)のスタート。

左に曲がるとすぐに「馬力神」(右)が。馬頭観音や奥州街道でよく見た勝善神というほどの馬信仰ではなく愛馬の供養塔程度に建てられたようで日光西街道には多いようだ。

ちなみに旧日光街道はこの追分を真っ直ぐ進み すぐに右側の細い道に入って行く。

交差点の向こうに老舗の和菓子屋さんがあるので寄り道を。

「蛸屋」(左)というちょっと変わった屋号の和菓子店は元禄11年(1698)創業の老舗。しかし和菓子店が何故「蛸屋」?

蛸屋さんのHPによると
仙台・広瀬川に面した和菓子屋が始まりと伝えられており、 時の仙台藩主から魚屋は魚屋らしくなく、菓子屋は菓子屋らしくなく、と命じられたことから蛸の看板を掲げたのが始まりで 後に栃木に拠点を移したのだとか。

日光街道を歩いた時は気付かなかったのだが店前の植え込みの中に「追分道標」(右)が建てられていた。(表紙の道標)

追分を出発して10分ほど歩くとゴルフ場の道路際に一里塚の看板が建てられており柵の内側に現存の「喜沢一里塚」(左)が。ここは左右両塚とも現存という貴重なもの。

一里塚から数分歩き小さな川を越えると、左の奥、やはりゴルフ場の敷地内であるが「古墳」(右)が見える。道路を挟んで反対側にも古墳があるが この周辺には5基の古墳があるそうだ。

ちなみに写真の古墳は5世紀後半に築造されたもので全長59mの帆立貝式という形状の古墳。

街道を歩きはじめてすぐに古墳時代にまで戻ってしまったが、三拝川岸(地名)までくると街道の右側に新旧2体の子育て地蔵が屋根の下に鎮座。

そのすぐ先、街道左側に「4体の地蔵尊」(左)が整列しているが まるで兄弟が行儀良く並んでいるようだ。

街道の突き当たり丁路を左に曲がり姿川を渡ると その先の旧街道は消滅。ならばと、車道を離れ「冬枯れの田園」(右)の中を歩いたのだが、これがなんとも晴々する良い雰囲気。

田んぼの中の道から街道に戻ると右手に「七面大明神」(左)の御堂があり左側には妙典寺があるが この辺りからが飯塚宿。   しかし宿場だったという雰囲気は無い。

何かないかと探したら「よろずや」(右)という蕎麦屋さんの入口に「野州飯塚宿」(右)と記された看板を発見。これが唯一の飯塚宿であった。

よろずやから10分ほど歩くと街道の左に台林寺があり その先に天満宮がある。街道はその前を通って行くのだがぜひ寄り道をしたい場所があるので街道を離れ台林寺前から右に曲がることに。

200mほど歩いた先の右奥は「摩利支天塚古墳」(左)と呼ばれる前方後円墳。墳丘を周湟(ほり)がめぐる全長117mという大きなもの。残念ながら杉林に囲まれ全体が見渡せない。

摩利支天塚古墳の先左側には「琵琶塚古墳」(右)があるが、こちらも前方後円墳で全長123mという巨大な墳墓。 

ともに大和朝廷の時代に下毛野国(しもけぬのくに)で活躍した王者の墓ということだが この他にも幾つもの古墳があり、これらを巡るだけでも一日楽しめそうだ。

琵琶塚古墳からさらに10分ほど歩き左側の林に入ると何棟かある東屋の1棟に掲示されていたのは「源氏物語の章」(左)。古墳時代の次は平安時代にタイムスリップだな。

ありました「紫式部の墓」(右)が。2基の五輪塔が並んだ傍らの説明板に紫式部の墓と記されている。でも何故ここに紫式部が。説明板をさらに読み進むと

この五輪塔は鎌倉時代のもので明治初期にここに移されたが、ここが 『紫』 という地名であったのでいつの頃からか紫式部の墓と言われるようになった とある。なーんだそうだったのか。でもロマンがあるなー。

その先は「万葉植物園」(左)。今度は天平時代にタイムスリップだ。そういえばここは天平の丘公園であった。

林の中は見渡す限り万葉集にちなんだ樹木・植物が植えられており歌が付されている。 冬枯れとなってしまっているのが残念。
 
  あかねさす 紫野行き 標野
(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る  恋歌ですかな。

万葉植物園の中をぶらついたあと天平の丘公園を出るとその先が国分寺跡。

国分寺と一口に言うが「国分僧寺」(左)と「国分尼寺」(左)の一対で国分寺と呼ぶ。ここは両寺が発掘されるという貴重な遺跡。

国分尼寺跡横の しもつけ風土記の丘資料館「国分僧寺・七重塔模型」(右)が展示されているが天平時代にこれだけの建築技術があったとはビックリ。

国分尼寺にはもう一つの見どころとして岐阜県根尾村から分けてもらったという淡墨桜の大木。

ちょうど昼となったので近くの「淡墨亭」(左)という蕎麦店で昼食としたのだが天ぷら蕎麦がお勧め。ちょっと細めの蕎麦が美味しい。しかも蕎麦湯ゼリーとコーヒーが付いて800円は安い。

天平ロマンに触れた後は再び江戸時代の街道旅に。

国分僧寺跡前を通って街道に戻り喜沢の追分方向に数分戻ると街道の両側にぽっこり小山が。 ここは左右両塚とも現存する「飯塚一里塚」(右)。

喜沢一里塚、飯塚一里塚と歩いてきたが次は1里先の壬生一里塚。ここも現存しているだろうか。

次の宿場壬生宿へ    表紙へ戻る