5月号
厳父慈母(げんぷじぼ)って何?
副校長 相 川 哲 也
爽やかな5月を向かえ、校庭の木々の緑も一層濃くなってきました。1年生の緊張感も少し薄らいだようで、休み時間になると校庭に出て、6年生といっしょに仲よく遊んでいる姿が見受けられ、ほほえましく感じています。
さて、先日テレビで「寺内貫太郎一家」が放送されていました。小林亜星演じる石屋の雷親父を中心としたホームドラマで、若い頃よく見ていたこともあり、つい懐かしくて見入ってしまいました。 そういえば昔は、この主人公と同じように短気で口下手、怒ると言葉より手が先に出てしまうような父親(親父といった方がいいかな)が近所にいませんでしたか。「地震・雷・火事・親父」とよく言っていたものでしたが、もう死語に近い言葉になってしまいました。
同じように「厳父慈母」と言う死語になった言葉があります。厳しい父と慈しみ深い母という意味で、ある種の尊敬と親愛を込めて、親としてのあり方を示した言葉だったのでしょう。私が若かりし頃の父親は、「怖い、厳しい、うるさい」と、三拍子そろった人も少なくなかったと思います。今の若者ならさしずめ『うざったい』という一言で言い表すかもしれません。そのような父親は、箸の上げ下ろしは勿論、風呂の入り方や体の洗い方、更には目上の人に対する礼儀作法や言葉遣いなどの『躾』を厳しく且つうるさく言ったものでした。昔と今では、価値観や社会情勢も違うので、一概に比較は出来ませんが、私などはそうやって体にたたき込まれた方でした。それに比べると一般論ですが、最近の親は、過保護・過干渉、子どもに甘く、子どもの要求を受け入れてしまいがちで、叱ることもなく、嫌われたくないあまり、自分の子どもにある種の遠慮さえしているように感じることがあります。これらのことが、家庭から『躾ける』ことが減り、子どもをわがままな王子様や王女様にしてしまっているという指摘もあります。そのような環境で育った子どもたちは、叱られたり批判されたりすることなく成長するためか、基本的な生活習慣の不足、規範意識の欠如、自己中心的、集団生活での不適応、稚拙なコミュニケーション能力といった課題を抱え込んでしまうようです。
この前ある雑誌を見ていたら、『カミナリ親父の復活』といタイトルでの座談会の内容が載っていました。その中で、あるPTA会長さんが次のようなことを言っていました。
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こわい親父は必要だと思う。昔は父親が威厳をもっていた。私も曲がったことをするとよく殴られた。その時はなぜ叱られたのか分からなかったが、何となく受け入れていた。それだけ信頼関係が強かったのだろう。
だが今は、父親が仕事の忙しさを言い訳にして、子どもを母親に任せることが多くなった。そのため、必要な時に叱ることもできない優しいパパが増えている。親子関係から友達関係へと変わりつつあるのではないか。一緒に遊ぶ時は、子どもの言いなりに遊園地などへ連れて行き、手っ取り早い方法で子どもの喜ぶ姿を見ては、親の威厳が保たれているような気になっている。子どもと触れ合う時間が短く、成長過程を見守っていないから、接し方が分からない。だから子どもの気を引くために厳しい親父ではなく、優しいパパになっているのではないか。(中略)
子どもが最初に出会う社会は家族である。時代が変わっても父親が家族の基盤になっている家庭は多い。その中の厳しさを見せられるのは、やはり父親の正当な厳しさではないだろうか。
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雷親父(厳父)と言っても、厳しさは少しだけでよいと考えます。抑止力と言う言葉がありますが、父親の存在はまさにこれだと思います。「普段は何も言わないが、怒ると怖い」そのことを子どもが知っているだけでも全く違います。私など八十歳になる父親が未だに怖いと思っていますから。
勿論、厳しく、うるさく言えば、すべてが解決するわけではありませんが、やはり、躾の確立や健全な心の成長には、親が時には厳しい、時にはうるさい存在を演じることも必要なのではないでしょうか。
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